泡沫にはならない/岸根
月の光を浴びてどこまでも広がる水面は私のなにもかもを包み込んで肯定してくれそうだ。私はいつだって月光を反射して眩く揺れる水面に沈んでしまいたいと思っているのだけれど、いざ足を踏み入れようとすると足が震えて、美しいはずの海が恐ろしく思えてしまって、砂浜に立ち尽くしている。
「気ィ済んだか」と低い声がする。何も返事をせずにいれば男は「……そうかよ」と答え、煙を吐き出した。
その様子を横目で見ながら私はふらふらと吸い寄せられるように水面に足を付けて、ぼんやりと浮かび上がっている水平線をただじっと眺める。つま先から感じる冷たい感覚は、最果てまでと急かす心を止めやしない。むしろ私の足を突き動かす原動力になっていた。もっと遠くに、ずっとずうっと遠くまで。ざぶざぶと音を立てて揺れる水が心地いい。このまま波に揺られて泡沫のように消えてなくなってしまいたいな、と思う。
別に特別嫌なことがあったわけではない。明日の見通しが立たないとか、生きていく術がないとかいうわけでもない。ただ、薄ぼんやりとした苦しみに嫌気が差しただけだ。
気が付けば水面は腰の辺りまで来ていた。もう少し進めばきっと足がつかなくなって溺れるのだろう。戻るなら今だとわかってはいるのに足は最果てへと水面を揺らす。さらに一歩踏み出した瞬間、腕を強引に引かれて私は後ろにもたれかかった。
「おい」
背中に何か当たる感触と顔に覆いかぶさる影で、私の後ろには彼がいるのだなとわかった。
「どこまで行く気か知らねぇがな、それ以上は駄目だろ。テメェみたいな奴はあっという間に溺れるだろうが」
「綴くん」
「お前がどうしたいか、どうするつもりだったかなんて知らねぇ。が、目の前で溺れられても気分わりぃンだよ。わかるだろ」
冷たく突き放すような物言いに比べてお腹に回された腕には力が籠っているし、息が切れているのか言葉の合間合間で必死に呼吸をしているのが伝わってくる。つくづくこの人は不器用なんだなと、回された腕を取ってそっと頬を寄せた。そもそも今海にいることだって、私が「海に行きませんか」と急にメッセージを送ったのに対して「十七時。迎えに行く」と彼がバイクを出してくれたからだ。
「……息、切れてるんだね」
「ああ!? ……くそッ、テメェが死に急ぐからだろうが! 」
水ん中とか死ぬ程歩きずれぇんだわ、と上から怒られる。いつもは何があっても余裕な顔をしているのに、息を切らして必死な顔をしている綴くんが珍しくって魅入ってしまう。別に死に急いだ覚えはないのだけれど、彼にとってそう見えたのならきっとそうだったのだろうなあと思う。
無言の私を見てどう思ったのか彼が口を開いた。
「あのな、別にお前が死んだってお前を苦しめた奴らにとっちゃ痛くも痒くもねえよ」
そんな一言で、やっぱり私なんてちっぽけでどうってことない存在なんだと思い知らされる。
「だけどな、俺はお前が死ぬことは許さねぇ」
「目の前で死んだら気分が悪いから? 」
「は、そうかもな」
彼は少し口を閉じて、腕の力を少し緩めた。
「ほら、帰んぞ。送ってやる。にしても散々だ、煙草がシケちまった」
そう言うと私の手を取って海岸まで歩いていく。
服も靴もびちゃびちゃなのに気にするところは煙草なんだ、と思わず笑えば「笑うな」と軽く小突かれる。
「ま、来いよお姫サマ。今ならお前は泡にならねぇし消えねぇ。その上王子サマまで手に入るハッピーエンドだ。せいぜい奪ってみろよ 」
綴くんは史上最凶の悪人のようににやりと笑う。だから私も精一杯の悪い顔をして、バイクに跨った王子様の手を取るのだ。