本当に名も無き激安居酒屋にて
台風は去っていた。
しかし、空はまだ不安定だ。一昨日、九州に上陸した台風は日本列島の南岸を舐めるように通り過ぎ、房総半島の南端をかすめるように再び上陸、昼前には太平洋へと抜けていった。
空を見ながら歩くのも久しぶりだった。西の空と東の空の色が違っている。
夕暮れは近い。北側の住宅の日照を奪わないように手前から階段状に高くなってゆく真新しいマンションの外壁や窓に当たる西日が眩しい。遠く南の空にまだ青い色が残っていた。
しかし、振り返れば淡墨で描いたような空が不安を誘う。
鞄の中を探り、折り畳み傘に触れ、その有無を確かめた時、小さな赤提灯を見つけた。
この地区はくまなく歩いている。かつてスナックだったと聞いているが、ずっと長い間、お店としては営業していなかった。外観を観察する。右手にドアがあり、左手の方にいくつか小窓があるけれど、中から何か貼ってあるようで店内は見えない。ドアに透明の小さなガラスが入っているので辛うじて店内が少し見えた。人の姿は見えない。
ここで、不思議なことに気づいた。看板がどこにも無いのである。店名を書いた小さなプレートのようなものもない。
雨が降り始めた。雨に背中を押されドアを開いた。
左手にカウンターがあり、その一番奥に暗く地味な服装の方が座っていた。
立ち上がりながら「いらっしゃいませ」とおっしゃるので、お店の方であることが解る。
カウンターは六席のみ。カウンターの中、左手にテレビがある。
手書きのメニュー二枚一組が二組置いてある。飲物と食べ物の二枚に別れているのだ。
飲物のメニューの中にホッピーセットを発見する。値段は三五〇円。
最近は四五〇円の設定にしているお店が多いので、この三五〇円というセット価格は安い。
しかし、驚くのはまだこれからであった。
「ホッピー氷なしでお願いします」と言う。
「氷無しですか・・・」とマスターらしき方。
「はい、お願いします」
「黒とノーマル、どちらにしますか?」
一瞬、何を言われたのか解らなかった。しばらく答える間が空いてしまう。
「じゃ、その・・・ノーマルでお願いします」
「ノーマル」という呼び方を耳にしたのは初めてだった。
黒いホッピーを「黒」と呼ぶのは解るけれど、白くないホッピーを「白」と呼ぶ一般的な言い方の方が違うのかもしれないと思えてくる。面白い。
考えてみれば、一九九二年の黒ホッピーの製造開始により、黒ホッピーと区別する為に、既存のホッピーを皆が便宜的に「白ホッピー」と呼ぶようになったのだから「ノーマル」と呼んでも悪くはないのである。
目の前に業務用ではない一般販売用のホッピー瓶が出され、空の生ビール用のジョッキが続く。
不思議なことに、次に出されたのは黒い升であった。
そして、その升の中にグラスが立てられた。
そのグラスにまるで純米吟醸酒を提供する時のように焼酎が注がれ、升にあふれさせくれたのである。
長い間、ホッピーを楽しんできたけれど、実際には出会ったことのないホッピーセットだ。
少し調べてみると、ホッピーセットやレモンサワーセットをこのスタイルで出すお店が下町に存在しているらしい。
「凄いですねえ」と思わず言ってしまう。
マスターの反応はない。
ホッピーを口にしながら食べ物のメニューを見る。
魚から野菜までなかなか豊富な内容のメニューである。しかし、驚いたのはその一品単価である。
真鯛刺身は二〇〇円、シメサバは一二〇円である。
両方をたのんでみた。
真鯛刺身は小ぶりな器にツマと大葉の上に五切れ、シメサバは横長の器に八切れのっている。それぞれ、二〇〇円と一二〇円というのは驚異的価格である。そして、簡単に言えば、どちらもちゃんとしているのだ。
牛スジ煮込み二〇〇円を頼む。牛スジと根菜類の煮込みである。
食べながら、入る前に一番知りたいと思っていたことを思い出した。
「こちらのお店にまったく気づかなかったんですけど、いつ頃開店されたんですか?」
「昨日からです」
「昨日ですか・・・外に看板とか無かったんですけど・・・お店の名前は?」
「別に何も無いです」
「無い・・・そうですか・・・」
ホッピーに入れる焼酎は半分だけ使っていた。
緑茶割り(二八〇円)を飲んでみようと思う。でも、ホッピーセットの焼酎がもったいない。
「あの、緑茶割りをたのもうかと思うんですけど・・・ホッピーセットの焼酎が残っちゃって、もったいないので、これ使って作ってくれませんか?」
ホッピーの残り焼酎を使った緑茶割りを作ってもらった。
後で計算するとこの緑茶割りを半値にしてくれたようだ。
ツマミが安いと思うと、ついつい次々に頼んでしまう。しかも、メニューには私の好きなものばかりが並んでいるのだ。
チキンカツ(二〇〇円)は我慢をした。しかし、納豆オムレツ(一八〇円)は頼んでしまった。
バイスを飲みたくなった。バイスセット(三五〇円)のバイスのみは一四〇円とのこと。
バイスをジョッキに入れてもらい、きゅうりたたき(一五〇円)も追加する。
ホッピーに加え、下町系の飲物の一つ、バイスが飲めるのが素晴らしい。
バイスは、コダマ飲料が販売する「コダマサワー」シリーズの中の一つで、フレーバーとして赤ジソが使われている。
「何時から何時までやっているんですか?」
「三時半からですね」
「お休みは?」
「今のところ無いです」
「日曜日もやってるんですか?」
「はい、一時から六時までだけですけど」
やはり、私の好物であるタコの唐揚げ(二八〇円)を頼み、ツマミが揚げ物なので生ビール(三五〇円)を飲みたくなる。
「いま、生なんですかぁ・・・」とマスター。
「ええ、最初じゃなくて、最後に生ビールって変ですよね・・・」と私。
マスターは何も言わない。
そして、冷えたフローズンジョッキで生ビールが出てきた。
タコの唐揚げと合うのだ。
これだけ、酒類四杯呑んでとツマミを五品食べて、お勘定を聞いてみれば、二一三〇円であった。
「小銭をピッタリ払いたい人なんで・・・すみません」といって、小銭を探して払い、外に出た。なぜ、謝っているのか自分でも解らない。
雨はすでにやんでいた。
よく、名も無き人々とか、名も無き・・・という言葉を比喩として使うことはある。
しかし、こちらのお店は、本当に店名は「別に何も無い」のであった。
店名が無くても、充実した内容で激安ならば、やがて人が集まるに違いない。
席も六席しかない。再訪した時、満席で入れないかもしれない。
(了)
※本文中の価格は2014年時点での価格である。