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短編小説「車いすとホッピー」(改定版)

 ニュースでその事故を知ってから裕一郎はずっと憂鬱だった。
 八十歳の女性が六十歳の長女に車いすを押してもらい、東急多摩川線の多摩川駅にやってきた。車椅子でも通り易いように通路の幅が広くなっている自動改札を抜け、エレベータに乗ってホームへ直接向かうことができる。
 ニュースによれば、女性は車椅子を押しながらエレベーターからホームに出ると、渋谷方面の線路の方向に車いすを向けて置き、その場を離れた。下の階で待つ人たちの為、エレベーター内の「閉」のボタンを押すためだったという。ホームには傾斜がある。長女がその場を離れたすきに母親の乗った車いすは動き出してしまい、ホームの端から線路上に転落した。折り悪く東横線の急行電車が入線してきて車いすを跳ねた。母親は翌日死亡した。
 都会の駅は様々なバリアフリー対策によって、構内の車いすでの移動が以前より容易になっている。しかし、駅のホームは平らではない。ホームには、雨水がたまらないように一メートルで一センチ程度の傾斜が付けられており、車いすがその傾斜を下り、転落する死亡事故が起きてしまったのである。

 ※     ※     ※

 裕一郎は独りで車いすに乗り、自宅の最寄り駅に向かった。駅に着くと、いつものように改札の脇にいる駅員に声をかけた。改札脇で待っていると、顔見知りの駅員がやってくる。彼は降車駅に連絡をして、どの車両の何番目のドアに乗っているかを伝える。
 駅員はホームから電車内へ渡す折りたたみ式の渡り板を持って、裕一郎の車いすに寄り添い歩いてゆく。一緒にエレベーターに乗り、ホームへ向かった。2両目の一番後ろの扉の前でいつもの電車を待つ。やがて、電車が入ってきた。しかし、様子が違っていた。いつものこの時間なら比較的空いている「車椅子スペース」の辺りが人でいっぱいである。大きなスポーツバックを足元に置いた学生たちがひとつところに固まって乗っている。
 駅員が「すみません、中程までお進みください」と車内に向かって言う。それでも学生たちは動こうとしない。時間が過ぎてゆく。「次の電車でいいです」と駅員に伝える。次の電車を待った。ところが、その電車にも同じような学生の集団が乗っていた。何かの大きな試合でもあるのだろうか。理由が解らないまま、3台目の電車が来た。すると、その電車も同じ状況だった。それでも、駅員が車内に入り、「おくりあわせください」と強く言ってくれたので、車いすごと乗るスペースがやっと出来た。駅員に「ありがとうございます」と声を掛ける。
 電車が走り出した。

 二十分ほど遅れて職場に到着すると、作業に入る前に上司である課長に呼ばれた。
 遅刻が続いていることを指摘しようとしているのだが、はっきり言う訳ではなく、言葉を選びながら話す上司の様子に裕一郎はいらだった。
 東日本大震災の影響で電車の本数が減らされ、通勤の状況が今までとは違うことを訴えようと思った。特に今日はいつもよりひどかった。自分が悪いとは思わない。しかし、裕一郎は何も言わず、ただ謝った。

 広い河川敷をもった一級河川の川沿いに建つその工場棟は美しかった。退社時間になると、夕日が白い建物の外観をあかね色に染める。
 廊下も広く、大型のエレベーターもあって、車いすでの所内の移動に問題はまったくなかった。「バリアフリー」であることを会社も内外に誇っている。障がいを持った社員を多く雇用して、社会参加を示している大手企業だった。

 仕事を終え、工場棟を出て正門近くにある管理棟の前を通り過ぎた時、背後から呼び止められた。そこに立っていたのは、須川女史だった。総務部で障がいをもつ社員たちの支援を担当している女性である。
 面倒見が良い反面、社内から怖がられている存在でもあり、幹部たちも彼女には一目置いていた。薄化粧と度の強めの眼鏡がととのった顔立ちを隠し、地味な服装が健康な肉体を覆い隠していた。揶揄するような「女史」という呼称で呼ばれていることも彼女自身はよく解っていた。

 「来週からはじまる研修会のメンバーに入っているわね」
 「・・・・・」
 「頑張らないとね」
 「何の研修か知らないですけど、今さら頑張っても仕方がありませんから・・・」
 「何かあったの・・・」

 須川女史の言葉を振り切って、車いすを急いで走らせた。
 ともあれ大きくて美しいその建物から裕一郎は早く立ち去りたかった。

 高速道路での交通事故で下半身の自由を失ったのは三年前の冬だった。
 客先の要望に応える為、営業車に乗り、地方の工場へ部品を届けた帰りに事故は起きた。
 手術を終え、リハビリの末に、裕一郎には系列の自動車会社が開発した最新の車いすが与えられた。会社はよく面倒をみてくれたということになる。
 しかし、一年後に復帰した職場は営業畑ではなく、工場での製品検査の仕事だった。
 会社に守られていることが有り難くもあり、苦痛でもあった。自分一人では生きていない。そんな気がする。贅沢な悩みであることも解っていた。だが、苛立ちは続く。

 駅に着いた。
 駅舎の脇にやっと人がすれ違うことが出来る狭い路地がある。その路地の奥は大衆酒場、焼き鳥店、スナックなど小さな店が並ぶ「飲み屋街」であった。ひどく舗装が傷んでいて危ない。アクリル製の看板や不法駐車の自転車で道幅の半分が塞がれ、とても車いすで入ってゆくことなどできない。
 よく解っているが、駅前に来るたび、ついその路地をのぞいてしまう。
 「この路地で酒を飲むことなど、もう無いだろうなあ」と、
 同じ言葉を頭の中で繰り返してしまう。

 帰路は駅員の手助けを受け、いつもの車両のいつもの位置に何事もなく滑り込むことができた。
 夕暮れ時の窓外を眺めながら考える。路地のことが頭から離れないのだ。
 本社の営業部にいた頃、5キロほど離れた場所にある工場に顔を出した帰り、その路地の一番奥にある「鳥城」という焼鳥屋で一人飲むことがあった。誰かを誘うわけでもない。静かに焼き鳥を食べ、お酒を少し飲む。
 お酒を頼む前の一杯目は、ビールではなく「ホッピー」をたのんだ。
 「ホッピーセットください」と言うと、大将は黙って奥の冷蔵庫からホッピー専用のジョッキを出し、そこに冷えた焼酎を入れ、冷えたホッピーの瓶と共に目の前に置いてくれる。
 ジョッキの中に自分でホッピーを注ぐ。ホッピーと焼酎が混ざり、勢いよく泡がたつ。白い泡と黄金色の液体が美しい。ぐいっと一口飲む。美味い。
 常連客が入ってくると、その客がいつも飲む銘柄のビールを黙って出してくれる、そんな店はよくある。この店の親父さんは、そんなことはしない。その常連客が自分で欲しいものを伝えるまで、笑みを浮かべながら待っているのだった。大瓶の瓶ビールは水を張った古いタイプの冷蔵ケースの中に沈められ、適度に冷やされている。仕事の合間、お銚子に酒を入れて、アルミホイルで蓋をしておく。すべてが段取りよく用意されていた。待たされるという感じを受けたことがない。新しい客も常連客も分け隔てなく接してくれる。それが何よりうれしかった。
 客が愚痴をいえば、黙って聞いてくれた。
 酔ったサラリーマンが仕事を評価されないことを嘆くと、
 「世の中じゅんぐりだからねぇ・・・大丈夫」と微笑み、
 男にふられた女性がいると、真面目な顔で、
 「美人さんなのにねえ・・・もったいないねぇ」と誰にでも言った。
 リストラにあって仕事を失った人が過去をふりかえると、
 「そりゃ、ずいぶん疲れましたねえ・・・」と何度もうなずいた。
 たくさんの言葉を並べることはない。自分が言われた訳でもないのに、そばで聞いていて、大将の一言が身に染みた。
 仕事帰り、一間間口の曇りガラスの引き戸をあける。そこで待っている一杯のホッピー。それが何よりの癒しだった。
 しかし、車椅子で、放置自転車のある路地を抜け、狭い入口しかない「鳥城」に入ることなど、出来るわけもなかった。

 次の日、河村商品管理部長が仕事場にやってきた。
 「君も今度の研修会に出るようにしてくれたまえ、須川君が資料を渡してくれるからよく読んでおくように。」
 「須川女史ですか?」
 「ああ、そうだ」
 後ろ姿はすでに遠くに行ってしまっていた。短い会話だった。

 四つある工場棟の一階と二階にはまったく窓がなく、巨大な扉は気密構造になっており、大きな機械の搬入の時以外は開くことはなかった。建物内へ出入りするには、四つの工場棟の中心に建つタワーに設置されたエレベーターで三階へ上がり、タワーから伸びる橋を使ってそれぞれの建物へ行くようになっていた。部品などの搬入もそうやって行われた。
 タワー三階のエレベーターホールから管理棟の方を眺める。管理棟の隣には、双子のようによく似た造りの研究棟があった。管理棟と研究棟も受付や管理人室をのぞいて、建物の一階にオフィスはまったくなかった。近くを流れる一級河川があふれた場合を想定して、一階部分は巨大なギャラリーのような空間になっていた。
 他の社員より少し早めの退社時間の裕一郎が敷地内を行くと、廃墟となった神殿に一人いるような錯覚を受ける。

 会社と駅の途中の交差点で信号待ちをしていた。
 すると、背後で人の息づかいを感じた。
 右斜め後ろから女性の香水の香りがする。
 「最近よく見かける女性ランナーかな・・・」と思った。
 しかし、その女性はスカートをはいていた。
 「早いわ・・・やっぱり勝てない・・・」
 「・・・・」
 見上げると、髪の長い白いワンピースを着た女性が身体を大きく前後に揺らしている。
 「あんなに早く走ったら危ないわ・・・」
 息を切らせている。須川女史であった。メガネを掛けていないので最初は解らなかったのだ。

 「すみません・・・ついつい早くなってしまって」
 「気をつけないと、また交通事故・・・」
 上気していた須川女史の顔から血の気がひいてゆく。
 「ごめんなさい」
 「何か御用ですか?」
 「管理棟の一階から見ていたら、あなたの姿が見えたので、急いで追っかけてきたのよ・・・本当は帰りに工場棟に寄って・・・これを渡そうかと思って・・・」
 封筒をつかむ指に塗られた派手なマニキュアの「赤」に驚いた。
 見知らぬ人の指のように思える。
 信号が変わった。封筒を受け取らず、横断歩道を渡りきる。
 須川女史がやってくるのを待って、その手から封筒を受け取り、背中のナップザックをおろして、その中にしまった。
 駅まで並んで行く間、二人は何も話さなかった。

 いつものように、駅脇の路地のところまでやってきた。
 ついつい、路地をのぞいてしまう。
 「この路地の奥で飲んだことあるわ・・・」
 「本当ですか?」
 「どうして?」
 「なんだか、須川さんには向かないような・・・」
 「私だってお酒飲むのよ」
 「お酒は飲むでしょうけど、こんな汚い路地ですから・・・」
 「今度、一緒に入ってみる?」
 「無理をしなくてもいいですよ・・・」 

 そのまま駅へ向かい、改札脇の窓から顔を出している駅員のところへ行って声をかけた。
 背後に須川女史が立っている。首だけを少しうしろに曲げ、裕一郎は言った。
 「あの、僕は時間が掛かりますから、どうぞお先に・・・」
 何か言いかけてから、時間がかかる理由を理解したのか、須川女史は改札口に入っていった。裕一郎に向かって少し手を上げ、そのまま踵を返す。長い手足が動き、彼女はゆっくりと歩いてゆく。マニキュアの「赤」が前後に揺れ動き、やがて見えなくなった。
 この後、裕一郎は通勤の道筋を変え、あの「路地」に近づくことはなかった。

 翌々週から管理棟の研修室で毎週土曜に開かれる研修会に参加した。
 参加してみれば、それは「管理者養成研修」であった。
 最初は自分が「管理者養成研修」を受けることに意味があるようには思えなかった。それが、回を重ねるうちに面白く思え、三ヶ月目には研修に参加することが楽しみになっていた。

 夏の終わりと秋の気配を朝晩の空気に感じる頃、全十二回の研修が終わった。
 その最終回の後、管理棟のカフェテリアで簡単な懇親会があった。
 他の参加者たちと共に研修室からカフェテリアに移動した。カフェテリアの職員に混ざって、長い髪の毛を頭の後ろでまとめ、白いエプロンをつけた背の高い女性が料理ののったプレートを運んでいた。
 須川女史だった。
 「お疲れ様、最終回までよく頑張ったわね」
 「仕事ですから・・・」
 「終わったら一緒に帰りましょう」
 「・・・・」

 裕一郎はアルコール類を飲まないようにしていた。ウーロン茶を飲み、周囲の人が運んでくれるつまみを少し食べた。
 一時間ほどの懇親会は、研修担当の役員の挨拶の後、解散となった。
 後片付けを手伝うために会場に残った須川女史を待つ為、管理棟の裏手に車いすを止めた。
 陽は西に傾いている。車いすと自分の背後には長い影が伸びているに違いない。
 ほとんど誰もいない広い敷地内に取り残されたようにいる自分の姿。
 その様子がどんな風に見えるだろうか。自分を見るもう一人の自分がいる。
 工場の敷地の西側に流れる広い河の対岸に建つ高層ビル群が見えた。
 数年前から建ち始めたマンションとオフィスビルだった。すべて完成するとかなりの本数になると聞いていた。
 やがて、背後から声をかけられた。
 「この人はいつも背後から現れる」と思いながら振り返った。
 膝に穴のあいたジーンズに、草木染めのシャツ。
 それは、いつもと違う須川女史の姿だった。

 「あのマンションには、私は住みたくないわ」
 「どうしてですか?、あんなきれいで立派なのに・・・」
 「だって、高所恐怖症だから・・・」
 「びっくりしました。」
 「どうして?」
 「須川さんに恐いものなんてあったのかって・・・」
 「もう、午後四時になるわ、行きましょう」
 いつも、うらはらな言葉が口からでてしまうのだった。

 工場の正門を出てから駅までいつもよりずっとゆっくりとすすんだ。
 交差点を渡り、商店街をぬける。
 駅の近くに来ると、なぜか須川女史が先に立って歩き始めた。
 いつのまにか、あの「路地」の近くまでやってきていた。
 振りかえると彼女は言った。
 「こっちに行ってみましょう」
 いつもの駅脇の路地を指さす。
 腹が立った。
 「無理だよ、車いすじゃ」
 「ごめんね」と言って、突然、須川女史が裕一郎の車いすの背後に回り、「握り」をつかんで、その方向を変えた。
 視線が大きく左にぶれた。目眩のような感覚から快復すると、目の前に細い路地が続いていた。
 西日が路地を手前から奥に向かって照らしている。
 様子が違っていた。
 無秩序に置かれていた不法駐車の自転車がきれいに並べられていた。
 さらに、穴だらけだった路地の路面は修復され、車いすでも通ることが出来るようになっている。何が起きたのか解らなかった。不思議だった。
 須川女史も黙っていた。
 すっかり身体の力が抜け、何も言えぬまま、路地の一番奥の方までやってきた。
 「鳥城」と書かれた古い赤提灯。しかし、のれんは新しくなっていた。鮮やかな紺色ののれんに「やきとり」の文字が白く抜かれ、右端に「鳥城」という店名もあった。

 店の中から見覚えのある大将の笑顔が現れ、その手がのれんを大きく右に寄せた。
 普通の引き戸だった入口は6枚組の開け放つことのできる扉に変わっており、車いすのまま、店の中に入ることが出来るようになっていた。それも、元々の味わいある雰囲気を壊さないように古い質感まで再現されているのだった。
 カウンターは、右手の壁際から始まり、店の中央で奥に向かって折れ、洗面所の手前で終わっていた。
 須川女史が「握り」をつかみ、力をこめて押すと、右の壁際の少し広くなっている空間に、車いすは納まった。
 あの頃、奥の方には、いつも常連の皆さんが座っていた。常連に譲る気持ちで、早い時間に店に入っても一番入口に近い席に座ることにしていた。今、裕一郎はそのいつもの場所に座っていた。
 のれんを元に戻した須川女史がその隣に座った。
 大将が笑顔で裕一郎の方を見ていた。あの頃と同じように、注文するのを待っていてくれるのだ。
 「あの・・・ホッピー・・・」
 それだけ言うのが精一杯だった。言葉がつまり、うまく話せない。
 須川女史の方を大将が見る。
 「瓶ビールお願いします。」
 大将が素早く大瓶のビールを冷却ケースの水の中から引き上げ、白いタオルで表面を軽く拭いてから栓を抜き、ビアタンブラーと共にカウンターの上の段に置いた。さらに、瓶ビールと同じ色のホッピーの瓶とホッピー専用のジョッキが冷蔵庫から取り出され、そこに冷えた麦焼酎が注がれる。
 須川女史がそのすべてをカウンターの下の段に置く。
 次に、素早く自分のビアタンブラーにビールを注ぎ、裕一郎の手元を黙って見ている。
 ホッピーのジョッキに水滴がついている。
 その水滴をしばらくなつかしそうに眺めてから、ホッピーの瓶を右手で逆手につかみ、中身を真っ逆さまに麦焼酎の入った専用ジョッキの中に投入した。瓶を小刻みにふりながらホッピーを入れる。焼酎が混ざり、勢いよく泡がたつ。白い泡と黄金色の液体が美しかった。
 三年ぶりのホッピーなのに、自分でも驚くほどうまく作ることが出来た。
 須川女史が自分のビアタンブラーを裕一郎のホッピージョッキに軽く当てた。
 「乾杯」
 呑んだ。うまい。あまりにもうまい。
 のどは冷たいもので潤い、胸には熱いものがこみあげてくる。言葉がみつからなかった。
 大将がこちらを見ている。
 「久しぶりですね。」
 それからゆっくりと言葉を探してから大将は言った。
 「ごめんなさいねえ、この路地の奥まで来たいのに来られない常連さんがいるなんて、ぜんぜん気がつきませんでした。」
 「いいえ、僕なんか常連のうちには入っていませんし・・・」
 「この恵子さんがね、教えてくれたんですよ、放置自転車で通れないようなす路地をなんとかしなくちゃいけないってね」
 須川女史は、すでにこの店で「恵子さん」と呼ばれる程の常連になっていたのだった。

 「いつから、このお店の常連さんなんですか?」
 「3年前の春頃だわ、今の工場に配属されてすぐね」
 「それじゃ、僕がこちらのお店に来られなくなってすぐですね」
 「入れ違いね・・・」

 大将がこちらを笑顔で見ている。その笑顔に答えなければならない。
 「もも、つくね、ねぎま、タレでお願いします。」
 本数を言う必要が無いことは覚えていた。客が一人なら1本、二人なら2本を焼いてくれる。最低何本という「縛り」はなかった。
 店の奥の方から燃える炭の香りが漂ってくる。甘い香りがその上に重なる。

 ホッピーを飲み干して、大事なことを忘れていたことに気づいた。
 「路地がきれいに舗装されていましたね・・・」
 「それはね、有志の皆さんがやってくださったの・・・」

 香ばしく甘い香りのやきとりを六本のせた皿をもって大将がやってくる。
 「有志の皆さんも恵子さんには勝てないですからね・・・」
 「大将、私がむりやりやらせたみたいじゃない」
 この路地では「恵子さん」と呼ばれている須川女史がいる。その美しい女性の楽しげな笑い声があたりを満たした。
 「表通りの工務店の社長さんがタダで路地を修復してくれたの、ここは全部私道だから商店会と地主の人の了解だけで済んだみたい」
 「地元の人間なら、この路地裏を愛する人がその店に来たくても来られないなんて状況、恥ずかしいと思わない・・・この言葉は効きましたね」と、大将。
 「そんなこと言ったかしら、わたし」
 また、笑い声が店内にひびいた。

 裕一郎は、さらに大切なことを思い出した。
 「あの、恵子さん」
 名前を呼ばれた女性は少し驚いた。
 「すみません・・・」
 「いいのよ、会社じゃないんだから・・・」
 「それじゃ、恵子さん・・・道がきれいに修復されているのはわかります。感謝してもしきれないほど、うれしいことです・・・でも、路地いっぱいだった自転車がきれいに整理されていたのは・・・」
 恵子の顔が輝いた。
 「あなた、すごい、よく気づいたわ・・・」
 「それに、お店の入口が車いすでも入れるように改造されていて・・・」
 すると、裕一郎の背後で男性の声がした。
 「ああ、焼き鳥、喰いてえよう」
 のれんをくぐり、3人の男たちが入ってきた。手にはそれぞれビールの入ったグラスを持っている。
 「裏で呑みながら呼ぶまで隠れてろって言われてたんだけど、美味そうな焼き鳥の匂いがしてきてさ、ビールだけじゃ辛くて・・・」
 作業服を着た大柄の男性が笑いながら恵子の隣に座った。
 「裕一郎君、この人がさっき話に出た工務店の社長さん、それから社員の皆さん・・・」
 「社員の皆さんだってさ・・・」
 「改まって言われるとなあ・・・」
 日焼けした若い男たちが照れくさそうにほほ笑み、社長の向こうの席に滑り込んだ。
 「路地の商店会の皆さんを常連のお客さんたちが手伝って、交代で片付けてくれているのよ」
 「それから、入口の引き戸は、こちらの社長さんが趣味でやってくれたのよ」
 「趣味とはひでえなあ・・・元々入口の戸がガタガタしてたからな、残材で扉を作って、取り付けたらぴったりだったよ。うれしいね。」

 全員が裕一郎の顔をほほ笑みながら見つめていた。
 「ありがとうございます」
 恵子が自分のビールを男たちのグラスに注ぎ、大将の方を見た。
 大将はやはり笑顔だった。
 恵子の長い人差し指と中指が立てられ、大瓶のビールが2本運ばれた。
 その指に、もはやマニキュアの「赤」はなかった。

  ※   ※   ※

 一年後、その狭い路地に面した鉄道の敷地側に新しく「駐輪場」が設置された。不法駐車の自転車は激減し、路地は格段に整った。
 それは、商品管理部長の河村が工場長に進言、本社の了解を得た上で鉄道会社に申し入れ、一年後に実現したものだった。工場長以外の社員でこの事実を知っている者は、裕一郎と恵子の二人だけであった。
 やがて、結婚の為に退職した須川恵子の忙しく立ち働く姿が駅の近くの小さな工務店の事務所にあった。この結婚の仲人は商品管理部長の河村夫妻であった。
 そして、何度かの管理者養成研修を経て、裕一郎は工場の管理棟の中に新設されたネット販売部の営業課長として営業職に復帰した。

 (了) 

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