長寿人生
親友と二人、それぞれの仕事が終わった後、軽く飲む約束をした。
横浜市内のJRと私鉄が隣接する乗換駅の近くである。
店は決まっていなかった。
美味しい料理をだす店を探しているわけではない、ことさら安い店をみつけようというのでもない。
静かに二人で話すのにちょうど良い、古い造りの店がいい。
あまりに汚いのは苦手だけれど、それなりに小綺麗にしていてくれれば充分だ。
夕暮れ時である。でも、陽はまだ高い。
比較的広い裏通りを歩いていると、角地に硝子戸を開け放った古い居酒屋をみつけた。
風に揺れる暖簾をくぐって入ると、右手に六人ほどが座れるカウンターがあり、左手の小上がり座敷には四人が座れる卓が二つ。小さめの座布団が置かれ、様々な生活雑貨が並んでいる。巨大な業務用マヨネーズのボトルがカウンターに置かれ、あらゆる調味料が並べられていた。
カウンターの中では、白髪は目立つけれど本来のお歳よりも若さを感じさせる女将さんが笑顔で迎えてくれた。
カウンターの上の段には、料理の載った鉢や大皿が所狭しと並んでいる。鯛のかぶと煮。根菜の煮物。豆アジを揚げたもの。どれも美味しそうだ。
友人の忙しく過ごしている日々のことは前々から聞いていた。
少し前、その友人の身体に不安な兆候があらわれた。
その為、彼はしばらく酒を飲まないでいたのである。
友人がビールの中瓶を手にとり、私のグラスにまず注いでから自らのグラスにも躊躇いがちにビールを注いだ。
つまみは二〇〇円から五〇〇円までと表記されているだけで、個々の値段ははっきりしない。
友人は食べ物を選ぶのに時間をかけない人であった。それとは逆に私はかなり逡巡してしまうほうである。
そんな友人が少し考えてから〈スパゲティサラダ〉と〈豆アジあげ〉を注文した。
昼は玄米のおにぎりだけを食べ、油分を含む食べ物を口にしないようにしているそうである。だから、マヨネーズを使ったサラダや、揚げ物は久しぶりであるという。
「ビールがうまいなあ・・・」と友人。
「うまいねえ・・・でもプリン体が恐くてねえ・・・」と私。
身体の不具合の話は親父同士の居酒屋話の定番だ。
しばらくして、何かがのせられた皿が二枚、我々の前に突き出された。手を出して受け取る。
「いただきものなんで・・・どうぞ」と女将さん。
気づかいの言葉である。出してくれたのは、〈ソラマメとイワシの煮付〉だ。
外から涼しい風が入ってくるようになった。すると、風に誘われてきたかのように、常連らしき皆さんが静かに入ってきて、我々の並びに一人また一人とすべり込む。
酒を常温で頼むことにした。
「あの、お酒を二本常温でお願いします」と友人。
「うちはこれなんですよ・・・」と言って、女将さんが見せてくれたのは、魚へんの漢字がたくさん書かれた、いわゆる鮨屋の湯飲みである。
鮨屋の湯飲みでそうすることはあまりないけれど、互いの湯飲みの飲み口をすこし当て乾杯をしてから飲んだ。からだに酒が染みてゆく。
「このお店はもう何年経つんですか?」と友人が女将さんに聞く。彼は誰にでも気さくに話しかける。
「この場所では十二年ですね」と女将さん。
湯飲みの魚へんの文字を眺めながら、「前は鮨屋をやっていたのだろうか」と思う。
次に〈いかの刺身〉と〈油揚げ焼き〉を頼んだ。
そして、お酒のお代わりも二人分。女将さんに返した湯飲みにふたたび酒が注がれる。
それから、マヨネーズ味の〈スパゲティサラダ〉を友人が御代わりした。
「マヨネーズが好きだったんだな・・・」と思う。
最初の常連の方が帰られ、違う常連の方が入ってくる。
そのお客さんの忘れたタバコを女将さんがとっておいてあげたようだ。笑い声があがり、会話が弾む。
女将さんが鯛の兜の中に入っていた、「鯛の鯛」を見せてくれた。
「鯛の鯛」とは硬骨魚類の骨の一部、肩甲骨と烏口骨が繋がった状態のものである。
この「鯛の鯛」に自分でマニキュアを塗るそうだ。
それは、とても美しく光っていた。
トイレに立った。湯飲みから酒を一口飲む友人の後ろ姿が目に入る。
和式便器の便所の壁に手拭いが貼ってあった。
「長寿人生」と書かれている。「長寿の心得」と書かれたものも何度か見たことがある。
長寿人生
人生は山坂多い旅の道
還暦 六十才でお迎えの来た時は 只今留守と云へ
古希 七十才でお迎えの来た時は まだまだ早いと云へ
喜寿 七十七才でお迎えの来た時は せくな老楽これからよと云へ
傘寿 八十才でお迎えの来た時は なんのまだまだ役に立つと云へ
米寿 八十八才でお迎えの来た時は もう少しお米を食べてからと云へ
卒寿 九十才でお迎えの来た時は そう急がずともよいと云へ
白寿 九十九才でお迎えの来た時は 頃を見てこちらからボツボツ行くと云へ
気はながく 心はまるく 腹たてず
口をつつしめば 命ながらえる
還暦まではまだ時がある。還暦前にお迎えがきてもちゃんと断ることができるだろうか。
「長寿人生」を読みながら厠で人生について考える。これも酒場の楽しみである。
席にもどった。友人は女将さんと話していた。
「独りになってからは・・・こんな感じでやってるんですよ」
そうおっしゃる女将さんの背後の棚に、女将さんよりすこし若い男性の「遺影」らしき写真が飾ってあった。
お勘定は二人で三七二〇円。思いの外安い。
「ありがとうございました」の声におくられ外に出る。
すっかり外は暗くなっていた。
友人は元気をだしてくれたようだ。
二人とも少しの酒で気持ちよくなっている。
友人の甲高い笑い声が耳に残った。
(了)