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風鈴の鳴る角打酒店 ~90年という長き時に~


 真夏の八月の話である。その夏は本当に暑かった。
 エアコンが無い角打だった。かなりの暑さを覚悟であえて訪問した。
 ある私鉄沿線の駅から少し歩いた、野菜、魚、肉の生鮮三品を安く売ることで有名な商店街の裏手にひっそりとその酒屋さんはある。角打ちのできる酒屋として歴史が古い。

 入口は開け放ってある。左手にL字形のカウンターがあり、その中に業務用の巨大な冷蔵庫があって、昭和三八年一二月一日付の「酒類小売価格表」が貼ってある。凄い。五十年以上前のものだ。
 入って右手に棚が並び、古い酒屋さんらしく、壁の高い場所に懐かしい酒造会社提供のポスターがたくさん貼ってある。無理やり作った「レトロ」ではなく、当時からの物がそのまま残されているのだ。
 一九二三年、大正十二年の関東大震災の後に建てた建物らしい。九十年の時がたっているのかと驚く。

 入って左側のカウンターの奥の方に、御常連の「先達」が立っておられる。私はカウンターの一番手前に立った。
 まず、自分の前のカウンターに千円分の小銭を並べる。五百円玉一つ。百円玉五つ。

 お店の中には女将さんとそのお母様らしき大女将のお二人。
 入って右手の冷蔵ケースから「のどごし生」を取り出してカウンターの上に置く。

 「これと・・・鮭中骨缶ください」
 「グラスいりますか?」と女将さん。
 「はい、お願いします」

 広告チラシを切った紙の白い側を上にして、鮭中骨(一七〇円)が目の前に置かれ。

 「しょうゆいりますか?」
 「あっ、このままで大丈夫です。薄味が好きなんで・・・」

 のどごし生の缶を開けて、グラスに注ぎ飲む。猛暑の中である。まずいわけがない。冷たさがしみる。
 私が立った立ち飲みカウンター台は全体がブロックを組んだ上に置いてある。昔は低い台だったものがカウンターに変更されたのだろうか。

 のどごし生はすぐに飲んでしまい、好きなトマトジュース割りを作ることにした。

 「あの、トマト割りが飲みたいんですけど」
 「焼酎は二〇度と二五度がありますけど」
 「弱いほうで・・・」

 トマトジュースの缶(一一〇円)と焼酎二〇度半分(一二〇円)が出される。
 ちょうど半分の辺りに線が入ったグラスで計られた焼酎を小さなコップに移して出される。
 トマトジュース割りはうまい。汗で塩分が失われた身体には特に助かるのだ。

 宅急便の人が顔を出した。汗だくである。

 「どうも~」
 「あっ、今日は何にも無くってすみませんね、暑い中~」と女将さん。
 「いいえ~、またお願いします~」

 話題は熱中症の話になる。
 前回お邪魔したのは七月末だったろうか。その時よりもまだ楽である。

 常連の方が登場する。

 「こないの?」と御常連。
 「さっききたよ。」と女将さん。

 「今日はお祭りなんだ、神社の中にお店が出ているってさ。」
 「うちの方は二九日、三〇日の土日なんだ・・・それにしても暑いね。」と大女将。

 魚肉ソーセージ(一〇五円)と塩豆(五五円)を頼む。
 酒は櫻正宗サクラカップ(二三〇円)にする。

 汗が流れる。
 風鈴の音がチリンと一回。
 風は時々やってくる。

 「この時間はまだ人が出てるけど、おわっちやうとさ・・・」と女将さん。
 なにやら寂しさが伝わってくる。

 若い方が入ってきた。
 「本日三回目です」と笑う。
 飲みたいものをカウンターに乗せて、お金をカウンターに置く。
 「今日はシンさん来なかったですか?」
 「来ませんよ、仕事じゃないの?」
 「あれだけ飲んでさ、偉いよなあ。」
 「偉いよ。」
 「これは汗が出てくら・・・外出てこよう。」と言って、入口の風の通る辺りを探してしゃがみこむ青年。

 蒸し暑さがつまみである。

 昭和三八年の「酒類小売価格表」とは別に「酒類店頭計り売りについて」という昭和四〇年九月の文章も掲げてある。

 「針が入らないんだよ・・・」と年配の方がポツリ。
 仕立て屋さんだそうである。
 「そう・・・」と受ける女将さん。
 「歳をとると、きっと気持ちが分かるよ。」
 「そうなんだ・・・」
 「歳をとってみれば分かるよ。」
 重い言葉である。

 風鈴の音がする。少し風が出てきたのだ。

 「風鈴の音がうるさいって言われるからって、うちはしまっちゃったよ。」と年配の方。
 「人それぞれ・・・感じ方だから。」と女将さん。
 「寂しいですね。」と私。

 夕暮れが近づいてきて、みんな口数も少なくなってくる。

 「なんでも、若いうちはいいけど、歳をとってくるとやだよ。」
 女性の方が通りかかる。

 「前のおばあちゃん元気?」と、それを聞くためだけに寄ったようだ。

 また、静かになる。

 「きたきた、きたきた・・・」の女将さんの声。

 ふと見れば、小さなマルチーズ犬。クッキー君というらしい。

 クッキー君には「クーちゃんのチーズ」というものが与えられた。見れば、6Pチーズである。

 飼い主の方が連れ帰ろうとしても6Pチーズが好きなクッキー君は帰りたくない。

 「おじさんも6Pチーズ好きだよ」と心の中で思う。

 やがて、クッキー君も帰っていった。私も帰ることにしよう。

 夕暮れも近い、暑さも少しゆるみ、背後でまた風鈴が鳴った。

 (了)


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