種の起源を読む(5)
AN HISTORICAL SKETCH~はこれで終わりです。
この文章は、ウォレス氏と私が種の起源に関する論文をリンネ学会で発表した後に公表したものである。私は、この著作の初版が出版された際に、多くの他の人々と同様に、「創造力の連続的な作用」といった表現に完全に騙され、オーウェン教授を他の古生物学者と一緒に、種の不変性を堅く信じている人物であると考えた。しかし、それは誤りであることが明らかになった(「脊椎動物の解剖学」、第3巻、796ページ)。この著作の最終版では、私は「疑いようのないタイプ形態」という言葉で始まる一節から(同書、第1巻、xxxvページ)、オーウェン教授が自然選択が新しい種の形成に何らかの役割を果たした可能性を認めたと推測した。しかし、これは正確で根拠がないこであった(同書、第3巻、798ページ)。また私は「ロンドン・レビュー」の編集者とオーウェン教授とのやり取りからいくつかの抜粋を示し、オーウェン教授が自然選択の理論を私よりも先に広めたと主張していることを明らかにした。この発表には驚きと満足を表明したが、最近出版された一部の記述(同書、第3巻、798ページ)を理解する限り、私は再び部分的または完全に誤った情報に陥っているようである。オーウェン教授の論争的な著作が、私と同様に他の人々にとっても理解しにくく、矛盾するものであることは、私にとって慰めである。自然選択の原則の単なる宣言に関しては、オーエン教授が私よりも先行したかどうかはまったく重要ではない。なぜなら、この歴史的なスケッチで示されているように、私たち両者は以前からウェルズ博士とマシュー氏に先行されていたからである。
訳者注:
ウォレス(Alfred Russel Wallace)は、イギリスの博物学者、地理学者で、ダーウィンと同時期に地理学的視点から生物は進化するという考えに至りました。インドネシアの狭い海峡を隔てた生物相の境界を発見し、のちにウォレス線と名付けられました。ウォレス線の西側ではトラやサイなどアジアの大型哺乳動物や淡水魚、地上棲の鳥類が生息していますが、東側ではそれらが全く見られないことから、氷河期に大陸と地続きであった場所と海峡で隔てられていた場所がそれぞれ別の生物相を作り出したことが明らかになっています。
オーウェン(Sir Richard Owen)は、イギリスの生物学者・比較解剖学者で、比較解剖学の大家であったキュヴィエの後継者と呼ばれ、特に恐竜や古生物の研究で大きな功績を残しています。しかし他者の功績を我が物にしたり、明確な盗用を最後まで認めなかったりと、研究者としての汚点も多数ありその人間性には疑問を持たれています。無脊椎動物ではカイロウドウケツを発見し、旋毛虫を命名し、頭足類や腕足類の分類体系を整理し、脊椎動物では特に原生、絶滅生物の歯の構造について膨大な比較研究を行い、特に爬虫類の絶滅種について詳細な比較研究を行った結果、絶滅したイグアノドンやメガロサウルスが別の目を構成するほどの一群をなしていることを突き止め、これに「Dinosauria(恐竜亜目)」という名称を与えました。絶滅鳥類であるモアの大腿骨を、一目見ただけで鳥類のものだと断じ、哺乳類の研究では偶蹄類、奇蹄類の分類を提唱し、絶滅した巨大カンガルーや巨大ウォンバットを発見するなどしました。これら以外にもほとんどすべての生物の解剖に関する論文を執筆しています。また膨大なハンテリアンコレクションの目録作成もライフワークとして行っており、自他共に認めるイギリス科学会の頂点でありました。彼は偏屈なまでの創造論者であり、生物の形態の中に宿る”神性”を見つけることを生きがいとしていたところがあります。のちに彼はダーウィン最大の反論者となり、巨大な壁として進化論の前に立ちふさがることになります。
ウェルズ(William Charles Wells)はアメリカの物理学者でダーウィンに先駆けて自然選択について考察しています。彼は人種、特に肌の色が人種間でなぜ異なるのかについての考察の中で独自に自然選択の考えに至り、ダーウィンに先駆けて自身の著作でそれを発表しています。
マシューズ(Patrick Matthew )はスコットランドの商人、果樹栽培家、林業家です。ダーウィンに先駆けて果樹や樹木の栽培から自然選択説の考えに到達し、1831年に軍艦に使われれる木材に関する著作の補遺という形式でそれを発表しています。ダーウィンは『種の起源』出版後にこのことを知り、率直で謙虚にマシューズの業績を讃え、完全に自身の理論を先取りしていたことを率直に認めています。ただし発表されているのが軍艦の材料に関する著作であることから、自身がそれに対して無知であったことは仕方ないが、それについては素直に謝罪し、『種の起源』の後の版でマシューズの業績を挿入することをマシューズの著作を出版した会社に約束する手紙を送っています。
イジドール・ジョフロワ・サン=ティレールは、1850年に行った講義(その要約は『Revue et Mag. de Zoolog.』、1851年1月に掲載)で、種ごとに特定の特徴が「同じ環境の中で永続するかぎり固定されており、周囲の環境が変化すると変化する」と信じる理由を簡潔に述べている。要するに、野生動物の観察はすでに種の変異性が限定されていることを示しているのである。野生動物から家畜化した動物や、家畜から野生に戻った動物に関する実験は、これをさらに明確に証明している。さらに、これらの実験は、生じる差異が属レベルの価値を持つ可能性があることも示しており、彼は「Hist. Nat. Générale」(第2巻、ページ430、1859年)で類似の結論を拡充している。
訳者注:
イジドール・ジョフロワ・サン=ティレール(Isidore Geoffroy Saint-Hilaire)はフランスの動物学者で、形態学、特に動物の奇形に関する研究で多くの功績を残しました。彼の父親も著名な動物学者で、イギリス解剖学会の権威であったキュヴィエの一家とは家族ぐるみの付き合いがありました。
最近発行された資料によれば、1851年にドクター・フリークは「ダブリン・メディカル・プレス」322ページにおいて、すべての有機生物が一つの原初の形態から派生してきたというアイデアを提唱した。彼の信念の根拠とそのテーマへのアプローチは、私のものとはまったく異なるが、ドクター・フリークは現在(1861年)、『有機的親和性を介した種の起源』というエッセイを発表している。彼の見解を理解しようとする試みは、私にとっては不要です。
訳者注:
フリーク(Henry Freke)はアイルランドの物理学者、作家で、1851年からすべての生物は単一の胚から発生するという主張を述べる論述を数回に分けて出版しました。彼はこの著作のコピーをダーウィンに送り、意見を求めますが、ダーウィンはそれを「下手くそ」で、「理解の範疇を超える」と断じました。しかし『種の起源』第三版以降では、この歴史的スケッチの部位で彼を取り上げています。
ハーバート・スペンサー氏は、1852年3月に「リーダー」に最初に掲載され、1858年に「エッセイズ」で再出版されたエッセイで、有機生物の創造と発展の理論を非常に巧妙で力強く対比している。彼は家畜の生産物の類似性、多くの種の胚が経験する変化、種と変種の区別の難しさ、一般的な連続変化の原則による論証を通じて、種が変容したと主張し、その変容を環境の変化に帰因している。この著者(1855年)はまた、心理学において、各精神的な能力と能力が段階的、必然的に獲得される原則に基づいて言及した。
訳者注:
ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer)は、イギリスの社会学者、倫理学者で、社会学に進化論の考えを持ち込み理論化しました。父親のジョージも学者で、ダーウィンの祖父であるエラズマス・ダーウィンが設立した哲学協会で書記を務めました。当初地質学の研究にのめりこみますが、この時にラマルクの進化論について学び、徐々に社会学的な応用について考え始めます。当時刊行されたばかりのEconomist誌の副編集長を務め、この時にジョン・スチュワート・ミルやトーマス・ヘンリー・ハクスレーなどと親交を深めます。自然選択説(natural selection)の概念を社会学に持ち込み適者生存(survival of the fittest)という言葉を生み出しました。
1852年、優れた植物学者であるノーダンは、「種の起源」に関する素晴らしい論文で、種が栽培中の変種と同様の方法で形成されると明言しており(「Revue Horticole」102ページ)、このプロセスは人間の選択力に起因すると彼は述べている。しかし彼は選択が自然界でどのように作用するのかについては示していない。彼はハーバートと同様に種が誕生した当初は現在よりも柔軟であったと考えていたようだ。彼は「最終性の原則」と呼ぶものに重きを置いており、「謎めいた、不安定な力;一部の人々には運命と考えられ、他の人々にとっては生物に絶えず作用し、それぞれの存在する時代において、その運命に応じて、その形状、サイズ、および寿命を、自然の秩序の中で果たすべき機能に合わせて調整する神聖な意志である」と述べている。*
訳者注:
ノーダン(Charles Victor Naudin)はフランスの植物学者で、メンデル以前に遺伝の法則について初めて言及した学者として有名です。彼は種の選択は栽培品種と同じように人間の手に委ねられていると考えていました。またそれまの考えとは異なり、交雑種は子孫を残しにくいことを発見しました。
スペンサー(Herbert Spencer)はイギリスの社会学者で、ダーウィンの進化論に大きな影響を受け、政治哲学、社会学の分野で多大な功績を挙げました。彼の著作はイギリスよりもむしろアメリカで好評を博し、日本でも福沢諭吉や南方熊楠、森有礼などの思想に大きな影響を与えました。ダーウィンよりも早くに進化の理論に考え至っており、『種の起源』出版後はその考えを人間の行為全般に当てはめて説明することをライフワークとしました。森有礼から日本国憲法の草案にも意見を求められた折には、「急激な進歩に伴うデメリットが大きいようなら、既存の制度に接ぎ木してそれを大きく育てるほうが良いかもしれない」というアドバイスを送っています。
*ブロンの『有機体の発達法則に関する研究』における言及からは、著名な植物学者兼古生物学者であるウンガーが、1852年に種が発展し変容するという信念を公然と表明した事実が浮かび上がる。同様にダルトンも、パンダーとダルトンによる化石ナマケモノに関する研究(1821年)において、同様の信念を述べていた。このような類似した見解は、一般に広まっている通り、オーケンによって彼の神秘的な「自然哲学」で支持されていた。またゴドロンの著書「種」における他の引用からは、ボリー・サン・ヴァンサン、ブルダッハ、ポワレ、およびフリースも新たな種が絶えず誕生していることを認めていたことが窺える。
さらに、この歴史的な概説に登場する34人の著者のうち、種の変容を支持するか、少なくとも別個の創造行為の概念を否定する20人は、自然史または地質学の専門分野で執筆していたという事実を付け加えておく。
訳者注:
ブロン(Heinrich Georg Bronn)は、ドイツの地質学者、古生物学者です。ダーウィンの信奉者で1860年に『種の起源』の初のドイツ語訳版を作成しました。
『Untersuchungen über die Entwickelungs-Gesetze』:有機体の発達法則に関する研究(全文コピーはこちら)
ウンガー(Franz Joseph Andreas Nicolaus Unger)は、オーストリアの植物学者、古生物学者です。自由主義者で進化論の信奉者であり、植物細胞内の不明な要素が植物の遺伝に影響を与えるという仮説を立て、彼の弟子であるメンデルの実験に大きな影響を与えました。
ダルトン(Joseph Wilhelm Eduard d’Alton)はアクイレイア(現在のイタリア北部)出身のドイツの銅版画家、博物学者で、後述のパンダーと共著で『骨相学(Die vergleichende Osteologie、全文コピーはこちら)』という素晴らしい図版入りの本を残しました。パンダーの良き友人として、また優れた美術、建築学の講師としてボン大学の教壇にも立ち当時の生徒の一人に、カール・マルクスがいます。
パンダー(Христиан Иванович (Генрих) Пандер, Christian Heinrich Pander)は、ラトビア出身の動物学者で、ニワトリの胚の研究で知られています。発生学という学問を創始した一人に数えられています。
オーケン(Lorenz Oken )は、ドイツの博物学者、自然哲学者で、演繹的な発生の原理にいくつかの仮説を提供しました。例えば頭骨は脊椎の延長であり、口は腸の延長であると言った仮説です。脊椎動物のアーキタイプと考えられる生物と、現行動物の類似性を何とか説明しようといくつかの仮説を多数提唱しましたが、比較解剖学の大家であるキュビエはオーケンの考えを一笑に付したと言われています。
ゴドロン(Dominique Alexandre Godron)はフランスの博物学、植物学、地質学者で、メンデルに先駆けて植物の交雑に関する研究を行ったことで知られています。
『種(Sur l’Espèce)』(正式な書名は『De l'espèce et des races dans les êtres organisés et spécialement de l'unité de l'espèce humaine.(有機体における種と種族、特に人類の単一性について)』):全文コピーはこちら
ボリー・サン・ヴァンサン( Jean Baptiste Bory de Saint-Vincent)は、フランスの博物学者で、フランス革命のさなかナポレオン軍に参加し革命軍として戦いました。これがきっかけでフランスを追放され、知人を頼って世界各地の植物や地形を探索しました。相当に波乱万丈な生涯を送った人で、興味がある方はフランス語版のWikipediaなどを参照してみてください。
ブルダッハ(Karl Friedrich Burdach)はドイツの生理学者で、生物学(Biologie)という言葉を始めて使用した人物です。神経解剖学の先駆的研究を行った人物として知られています。当時ロシア帝国領土であったドルパト大学で教鞭をとり、教え子に前述のパンダーなどがいます。
ポワレ(Jean-Louis Marie Poiret)はフランスの植物学者で、ラマルクとともに『方法論百科事典(l'Encyclopédie méthodique)』の植物学辞典を執筆しました。
(多分この人…)フリース(Elias Magnus Fries)は、スウェーデンの菌類及び植物学の学者で、地衣類と菌類の分類に多大な貢献をしました。「真菌学のリンネ」の異名で知られ、現代的なキノコの分類法を確立した人物として知られています。
1853年、著名な地質学者であるカイザーリング伯爵(「地質学会誌」、第2シリーズ、巻10、ページ357)は、新しい病気が、ある種の疫病によって引き起こされたとするとき、特定の環境分子によって化学的に影響を受けて新たな形態を生み出した可能性がある。このように、一定の時期において既存の生物種の胚が周囲の分子によって影響を受け、新たな形態を生み出した可能性がある、と提唱した。
訳者注:
カイザーリング(Alexander Friedrich Michael Lebrecht Nikolaus Arthur Graf von Keyserling)はバルト・ドイツ系の貴族出身の地質学、古生物学者です。当時のロシア帝国、現在のラトビアの生まれですが、ベルリンのフンボルト大学で学び、のちのドイツ首相ビスマルクと出会い終生の友となりました。ダーウィンはここで学者であるアレクサンダー・カイザーリングにCount(伯爵)の敬称を付けて呼んでいますが、正確には伯爵位を継承したのは彼の兄でここで出てくるカイザーリング氏は伯爵ではありません。カイザーリングは種の変異説を支持しており、自身の論文では種が異なる分子の働きによって発生すると主張しています。
同じ年、1853年、シャーフハウゼンは優れた小冊子を発表した。この中で、彼は地球上での有機形態の発展を主張している。彼は多くの種が長期間にわたって変化せずに存在し続けたと推論しており、一部の種だけが変化したと述べている。彼は種の区別を、中間の段階的な形態が破壊されることによって説明している。そして「したがって、生物や動物は新たな創造によって絶滅したものから分かれたものではなく、連続した繁殖を通じたその子孫と見なされるべきである」と述べています。
訳者注:
シャーフハウゼン(Hermann Schaaffhausen)はドイツの解剖学、人類学者で、特にネアンデルタール人の化石を古い人類のものと同定したことで知られています。彼は1853年の論文でダーウィンの進化論以前に種の不変性が証明されていないことを宣言しています。
1854年、フランスの有名な植物学者である ルコックは、彼の著書で「私たちが種の不変性または変異に関する研究を行っていることからわかるように、私たちはジョフロワ・サン=ティレールとゲーテによって提案された考えに直接導かれている」と述べている。ルコックの大著に点在する他の箇所からは、彼が種の変更に関する彼の見解をどの程度まで拡張しているかについて少し疑念が残る。
訳者注:
ルコック(Henri Lecoq)はフランスの植物学者、薬剤師で、ダーウィンの進化論以前から植物の交雑の実験を行い、のちにメンデルやダーウィンからその業績を高く評価されています。彼の著作は科学的な事実と啓蒙的でロマンチックな描写が同時に表現されているとして、その内容が科学的ではないとして学者たちからの批判も多く集めました。
ジョフロワ・サン=ティレール(Étienne Geoffroy Saint-Hilaire)は、フランスの博物学者で、イジドール・ジョフロワ・サン=ティレールの父です。わかりにくいのですが、名前の頭にIsid.、Isidoreとついている方が息子です。ジョフロワ・サン=ティレールはナポレオンのエジプト遠征に同行し、多くの動物の標本を収集し研究しました。またこの時集めた数千年前のものとされる動物のミイラのコレクションを研究し、種の不変性に関する議論を巻き起こしました。この時の収集物の研究が「すべての動物は単一の構造プランをもつ」という彼の進化に関する考えを裏付けることになりました。彼が自然史博物館の教授であったときからの同僚でもあった解剖学者のキュヴィエとは家族ぐるみの親交がありましたが、種の不変性を信じるキュヴィエとは意見が対立し、科学会だけでなくメディアや哲学、神学者を巻き込んだ一大議論テーマとなり、彼らの議論内容は逐次公表され一世を風靡しました。結局ジョフロワ・サン=ティレールの考えは神の力とは矛盾しないとしてキュヴィエの固定説を打倒し、多くの人が彼を称賛することとなりました。
ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)はドイツの詩人、自然科学者です。作家としてあまりに有名なため科学的な業績が霞んでしまいがちですが、博物学、鉱物学者としても多くの業績を上げています。人間の胎児期にだけ存在する顎間骨の存在を発見したり、鉱物や色相の研究にも功績を挙げています。ゲーテ自身は生物にはすべての器官の元となる器官があると信じており、前述のキュヴィエとジョフロワ・サン=ティレールの議論の行方を相当気にしていたようです。結論が出てからは自身の著作で「類似性と存在を追求する学者」とジョフロワ・サン=ティレールを称賛しています。
「創造の哲学」は、1855年の『世界の統一に関するエッセイ』で、バーデン・パウエルによって巧みに取り扱われている。彼が新たな種の導入が「偶然ではなく、規則的な現象」であることを示す方法は、非常に印象的である。また、ジョン・ハーシェル卿の著作によると、それは「神秘的なプロセスとは対照的な自然なプロセス」であるようだ。
訳者注:
『Essays on the Unity of Worlds(世界の統一に関するエッセイ)』こちらに全文コピーがあります。
バーデン・パウエル(Baden Powell)は数学者、イングランド公教会の司祭で、神学者でありながら自由主義で進化に関する先進的な考えを提唱した人として知られています。聖書と科学がいずれ対立することになることを見抜き、科学者としてはダーウィン以前に進化論に共感を示しています。道徳と物理を分離するように主張し、奇跡を祈るよりも神が定めた自然の法則を信じるように主張しました。
ジョン・ハーシェル(Sir John Frederick William Herschel, 1st Baronet)は、イギリスの天文学者、数学者で、南アフリカから南半球の天体の研究を行い多くの業績を上げました。ベデルギウスの明るさが変わることを発見し、天文学でユリウス通日を使うことを提唱しその習慣は現代まで受け継がれています。土星と天王星の衛星の名前を付け、写真のネガ、ポジの名称を作ったのも彼です。彼の父は天王星を発見したウィリアム・ハーシェル、妻は植物画家のマーガレット・ハーシェル(Margaret Herschel)、息子には指紋の恒久性を発見し契約書のサインの代わりに指紋を押すことを推進したウィリアム・ハーシェル(二世)(Sir William Herschel, 2nd Baronet)、彗星や隕石の研究を行い気象分光学の先駆者と言われるアレキサンダー・ハーシェル(Alexander Stewart Herschel)などがいます。学者一族です。
「リンネ協会のジャーナル」の第3巻には、1858年7月1日にウォレス氏と私が執筆した論文が収載されており、この巻の序文に述べられているように、ウォレス氏によって自然選択の理論が見事な説得力と明快さで喧伝されている。
フォン・バーエはすべての動物学者が深い尊敬を抱いている人物で、おおよそ1859年ごろ(ルドルフ・ワグナー教授の著書「動物学と人類学の調査」1861年、p. 51参照)に、地理的分布の法則に主に基づいて、現在は完全に異なる形態が単一の親形態から派生したという確信を表明した。
訳者注:
フォン・バーエ (Karl Ernst Ritter von Baer Edler von Huthorn) は、バルト・ドイツ人の科学者および探検家で、生物学者、地質学者、気象学者、地理学者であり、胚学の創設者または最初の研究者の一人と見なされています。
ルドルフ・ワグナー(Rudolf Friedrich Johann Heinrich Wagner)はドイツの解剖学者、生理学者で卵細胞核の発見者の一人です。強烈なキリスト教信者であることを公言し、ドイツ文学、特にゲーテの著作を思想のよりどころとして唯物主義と立ち向かうために、神の痕跡を探すために研究に没頭していた節があります。
1859年6月、ハクスリー教授は王立協会で『動物生命の持続的型』に関する講義を行った。この件に関して、彼は次のように述べている:「もし我々が、各動植物の種や、各組織の大まかな型が、長い間隔をおいて独自の創造的な力によって地表に形成され、配置されたと仮定した場合、これらの事実の意味を理解することは難しいだろう。そして、このような仮定は、伝統や啓示によって支持されることなく、自然の一般的な類推に対立していることを思い出すべきである。一方、『持続的型』を、ある時点で生存している種が、既存の種の逐次的な変更の結果であるという仮説と関連付ける場合、生物が地質学的な時間の中で経験した変更の量は、彼らが受けた変化の全体の中で非常に小さいと思われる。」
訳者注:
ハクスリー(Thomas Henry Huxley)はイギリスの生物学者です。進化論の強力な擁護者として知られ、のちに「ダーウィンの番犬」と呼ばれます。ダーウィンの師でもあり、イギリス科学界の頂点、比較解剖学の権威であった前述のリチャード・オーウェンは、人間の脳の解剖学的構造が明らかにほかの生物とことなることを根拠に進化論に反対し、ゴリラと人間の骨格の類似性を根拠に進化論を擁護するハクスリーの論戦はのちに『Evidence as to Man's Place in Nature』(1863年)にまとめられて、出版されます。この書籍の表紙に描かれたサルと人間の骨格の違いを表した図は、のちのあらゆる進化を扱う書籍に類似の図として登場することになります。
1859年12月、フッカー博士は『オーストラリアの植物図鑑への序文』を発表しました。この偉大な作品の最初の部分で、彼は種の進化と変化の真実を認めており、多くの独自の観察によってこの教義を支持しています。
訳者注:
フッカー(Sir Joseph Dalton Hooker)は、イギリスの植物学者で、南極、インド、ヒマラヤなどを調査し多くの植物標本を収集しました。ロンドン王立協会の会長を務め、ダーウィンが収集した植物標本の分類を引き受けて作業を手伝いました。ビーグル号航海の後、標本整理と著作の為に田舎に隠棲していたダーウィンに、学会の情報や求められる資料を継続的に送ったり、また良き相談相手として陰に日当にダーウィンを支えました。当初は自然選択説に批判的でしたが、ダーウィンとの文通を通じて進化論の擁護者となり、『種の起源』出版後、最初に公的にダーウィンを支持した最初の一人となりました。フッカーは父親の後を継いでキュー植物園の責任者に任命され、自身が集めた世界中の植物標本を管理することになりましたが、大英博物館自然史部門(世界中から集められた植物標本が集められていました)の責任者であった前述のリチャード・オーウェンとは組織的にも個人的にも大きな対立、競争が起こります。フッカーがキュー植物園の責任者であった時、当時の議会議員アクトン・スミー・アイルトンが自身のねじ曲がった正義を振りかざし、あの手この手の嫌がらせを駆使してキュー植物園とフッカーに数々の不快な言いがかりをつけ、植物園は存亡の危機に立たされるという事件が起きます。あまりにも荒唐無稽な批判がキュー植物園とフッカーに降り注いだため、ダーウィン、ハクスリー、ティンダル(チンダル現象を発見した物理学者)などの著名な科学者らが共同で署名した声明が議会に提出され、キュー植物園に関する事案が公式に取り上げられ反論の機会を与えられることとなりました。これによりアクトン・スミー・アイルトンが内密にリチャード・オーウェンに書かせたあまりにも荒唐無稽な内容ではありますが公式な報告書の存在が明らかとなり、フッカーはそれに事実をもとに反論することでキュー植物園と自身への悪評を好転させ、キャリアを続けられることとなりました。ちなみにアクトン・スミー・アイルトンによると、報告書の存在がフッカーらに隠されていた理由は、「国王に関する事柄に関して質問をするには地位が低すぎる」からだそうです。
この著作の最初の版は1859年11月24日に出版され、2版目は1860年1月7日に出版されました。
訳者注:
1859年11月24日に『種の起源』の初版が出版されたのを記念し、日本では毎年11月24日を進化の日としています。
この記事の文章は最終版である第六版を基にしており、特にこの歴史的スケッチは各版で大きく内容が異なるため、比べて読むと初版出版後のダーウィンの調査や思索の過程がうかがえてなかなか興味深いです。ちなみに『進化(Evolve)』という言葉が初めて登場するのは第六版からです。
今でも、修士論文や博士論文、また科学に関する著作を書くときは研究の歴史を概観するために先駆者から最新の知見までの研究の歴史を概観するのが通例となっています。ダーウィンも自身の主張と似通った言説が記載された過去の論文や書籍を幅広く読んで知見を深めていたようです。少なくとも英語、フランス語、ドイツ語の著作が登場しているため、ダーウィンは少なくともこれらの言語の読解が出来たことが分かります。
また驚かされるのが当時のイギリスの科学界の層の厚さです。ダーウィンの支援者としてハクスリー、フッカー、
歴史的スケッチはこれにて終わり、続いていよいよ本編INTRODUCTIONに入ります。