楽しむことを邪魔する自分の価値観
立派なものや社会において価値があるものは、人間の価値観の総意が決めていて、価値観がなくなってしまえば意味もなくなる。そのうえで敢えて立派なものを追いかけてもいいし、別にいいやと自由に生きてもいい。
価値観がなければ人間は悩まない。自分はどうしてこうなのかという悩みは、こうであるべきだという価値観があるから成立する。相手はなぜこうなのかという悩みは、人間は普通こうであるべきだという価値観があるから成立する。悩みは悩みそのものを考えるより、なぜそれを問題だと自分は思うのかを問いかけた方が正体が浮かび上がりやすい。それが悩ませているのではなく、自分が悩んでいるのだ。
価値観は良いか悪いかということだから、価値観を通して物事を見れば、物事は必然裁かれることになる。楽しむということは裁かれることと相性が悪い。しかも価値観が単一であれば、その良い悪いが揺らがない。価値観に染まった人は楽しいですかと聞かれても、よくわからない。正しいかどうか、良いか悪いかはいくらでも答えられる。いくら考えても、感じることには到達しない。
楽しむことは楽しいことは違う。人生は楽しまないとねと言って、パーティーに出かけ刺激のあることを求め探し回っている時、実際のところは楽しんでいるのではなく、楽しまされているだけという場合がある。外部の刺激によってしか楽しさが誘発されないなら、それは外部の刺激によってコントロールされているとも言える。楽しむことは内から生まれ、楽しいことは外から来る。
楽しむ時、そこに意味はなく、未来もない。それをやったから成長できるわけでも、社会の役に立つだけでもない。人の評価もない。ただ楽しいという湧き上がる気持ちがあるだけで、行為が終われば消えてしまう。楽しむ力がある人は無意味、無作為であることが気にならない。楽しめない人は無意味無作為が許せない。楽しむことは本質的に無意味である。
期待、成長、発展、貢献、意味、役割、計画、戦略、価値などは通常重要なものだけれど、楽しむ時はこれらを一斉に捨てなければならない。この手離し方がうまければ楽しむこともうまい。ところがこれらは通常生きていく上で重要なものだと言われるからなかなかに手放すことができない。手を離しても水の上に浮いている自分を知って初めて怖さが消えていく。手を離すまでは手を離しても大丈夫であることを体感することができない。いつ手を離すのか、それは勇気の問題だ。
良い悪いを離れたところに楽しむことが生まれてくる。まあつまらないつまらないと言いながら、その人の両腕には大事そうに価値観が抱えられている。