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不快や嫌いと距離をとっていく中で、人がどんどん先鋭化する現象はどう理解すればいいのか

長文ファンの皆様おはようございます。

私は信念がいかにして構築されるかに興味を持っています。その中で分裂生成(元々はベイトソンが提唱したものだそうです)というアイデアでそれが説明できないだろうかと考えています。

普通に考えれば、例えば農耕や儀式などはより合理的かつ魅力的なものであれば当然採用されそれが広がると考えます。

しかし、実際には距離的に非常に近い地域同士で、違う文化が育つことがあるそうです。農耕の近くで狩猟採集、派手な祭りの近くで、質素な祭り。これらを説明するために分裂生成というアイデアが生まれました。

これは要するに自分たちが自分たちであると認識するために、周辺の文化とあえて違ったことを行い、距離を置くことを説明したものです。

これを拡大解釈して思考実験してみたいと思います。端的に言えば「人間の信念は分裂生成的なものの産物ではないか」です。

つまり、自分がどんな考えを持っているかを自覚する時に、いったい何とは違うのかを考えます。その時、自分が共感できないもの、不快に思うもの、許せないものあたりを認識し、自分がそうではないのだ、あれとは距離があるのだと自覚します。

こうして柔らかな信念が生まれるわけですが、生きていく上で色んな経験をし、次第に信念が固まっていきます。一方で、違う価値観と激しいぶつかり合いをした場合、信念がより硬直化し先鋭化することがあります。

贈り物文化がどんどん先鋭化した結果、自分の大事なものを叩き割る祭りに発展する、などです。

分裂生成的に信念を構築していく中で、強い刺激を伴う信念構築プロセスはむしろ人を先鋭化するのではないかという仮説を持っています。英語ではポラライゼーション(分極化)というそうです。

寄ってみれば人類は多様ですが、離れてみればまあ大体同じです。分裂生成的な世界は(あなたは何者?皆とはどう違うの?)、局地に意識を向けさせる効果があるように思います。

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