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陰謀論にはまらないためにどうすればいいか
今後の教育の重要なテーマの一つに「どうすれば陰謀論やカルトや過激思想にはまらずに生きていくことができるか」があると思います。不良になったり、ちょっとぐらい道を踏み外すことはなんとでもなりますが、心底何かを信じ込んでしまった場合そこからリカバリーはかなり大変なものになります。家族の誰かが陰謀論やカルトにはまってしまうと本当に大変です。見捨てようにも愛情があって見捨てられませんし、悪気が全くなくみんなのためとすら思っているのでどんどん周りを巻き込んでことが大きくなります。信用や地位や財産がある家は使えるのでなお大変です。
私の知る限り特殊な人がはまるわけではないと思います。本当に誰にでもそうなる可能性があり、以前はまだ社会の中にわかりやすい接点があり警戒もそれなりに可能でしたが、今はネットの普及でどこにでも落とし穴が広がっています。何気なくyoutubeを見てた高齢男性があっという間に陰謀論にはまり込んでいく事例をよく聞きます。
一方で例えば今のブロックチェーン技術もそうですし、以前のインターネットもあんな怪しげなものと言われたりしていました。そこにきちんと打って出た人が成功しているわけです。次のイノベーションや社会変革の入り口と、陰謀論やカルトの入り口はどう違うのでしょうか。見分けはつくのでしょうか。
少なくとも知識が足りない私は自分自身で見分けられる気がしません。ただ、その入り口に立って入り込もうとしている人を見ると、抜け出てこられそうな人と抜け出られなさそうな人の違いがわかるような気がします。前者の人は「賭ける」と言い後者の人は「わかった」とか「見抜いた」と言います。
「賭けた」といっている人はいくつかの選択肢がありそれも選べた中でこれを選んだということを自分で認識しています。この選択肢があり選べるという感覚がとても重要です。「賭ける」という言葉を使う時点でもしかしたらそうじゃないかもしれないという可能性をきちんと残しています。一方で、「わかった」「見抜いた」という言葉には、まるでたった一つの真実を見つけたというような意味が含まれます。これが危ないです。もしかしたらそうじゃないかもしれない、や、他にも選択肢があるかもしれない、がすっかり消え、もはやそうでしかありえないという一択感があります。
では実際に陰謀論にハマることはふせげるのでしょうか?私は適度に怪しげな情報に触れること、実社会に揉まれること、多くの体験を持つこと、友人とお互いを馬鹿にしながら定期的に笑うこと、ではないかと考えています。
まず情報全体が整理整頓されすぎた中で生きていると、全体の矛盾がなさすぎるのでそれをひっくり返すような理論が出てきた時一気にそれを信じ込むことが起きやすくなると考えます。そもそも情報に矛盾があったり、自分の中でも葛藤を抱えていれば、新しい理論が出てきても全部は整理できないのであまりインパクトがありません。カルトにはまった人や陰謀論にハマった人の話を聞くと、何かを一貫したい人や、考え方が潔癖な人が多いです。
次に実社会に揉まれて多種多様な人と出会い、もっと自分自体が混沌として矛盾だらけになること、そして体験をして知識と体験の違いをよく知っていくことが大切だと思います。自堕落で、適当な人は陰謀論にはまることがあまりありません。最後にきちんとお互いを馬鹿にして笑い合えているかが大事です。笑う瞬間に人は客観的になります。コンプレックスは自分で笑えるようになるまでの特徴のことだと考えています。
個人の心構えで大切なことは「人生の悩みや世の中の不思議を一発で解決しようとしないこと」だと思います。人生は退屈です。世の中は複雑です。そしてこの人生にも一発逆転なんてありません(滅多に)。この凸凹したダメなところもある自分と向き合いながら、めんどくさいな、しょうがないなと言いながらエッチらホッチら生きていくしかないのだと思います。
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