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動き 2014年12月31日

私たちのずいぶん前の先祖はただ波に揺らいでいた。最初はほんの小さな揺らぎから、少しずつ動きが生まれていった。光を見たらそちらに向かったり、危険を察知したら逃げたりと、周囲の環境に対して反応だけで動きが促されていたという。

心とは何かという定義はさておいて、怒りや恐れといったような情動が生まれたのも動きが生まれてからずっとずっと後だった。環境に対対応した動きが生まれ、生物が複雑化し、心が生まれた。私は環境に反応した動きの後解釈が心の始まりではないかと思っている。

全ては脳への刺激だけで体感したという感覚を得られるのかどうかという議論がある。けれども脳だけを取り出して考えることはできるのだろうか。子供が最初外界と自分を隔てて理解するのは目の前で手を振ってみたときだ。動かそうと思った手は動く、しかしカーテンは動かない。こうして動かせるものは身体、それ以外は外界だと理解していく。身体がない状態で、自分の範囲を知るということが私にはできるとは思えない。

スポーツには身体がある。外界と身体との往来の中で、動きは習熟され熟達されていく。熟達者は意識されるよりもは早く反応する身体に気づいている。スポーツには自分の身体を遊ぶ面白さがあり、そして意識的に考えるという行為や意図するということを疑うという機会がある。

私は”人間らしさとは何か”にとても興味を持っている。人間らしさの前に生物らしさがあり、それらの根幹には動きがある。スポーツが人々の心を捉えて離さないのは、極めて生き物らしい行為だからではないか。生物の始まりは動きだ。動きから生物は逃れられない。

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