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話を聞いてもらいたいという欲求

人間は程度の差こそあれ話を聞いて欲しい生き物で、だからこのようなプラットフォームで私も含めて人々が様々に話しているのだと思います。では、十分に話を聞いてもらえているとはどういうことでしょうか。また話を聞いてもらえないと人はどうなるのでしょうか。

まず話を聞いてもらうということは、何かを答えを出すということとは違うように思います。ですから、議論をしても話を聞いてもらったという感じがしないということはよくあります。話を聞くという行為は突き詰めれば全身でその人と向き合って受け止めるということです。答えを出す必要もアドバイスをする必要も、自分の意見を言う必要もありません。その人が言う言葉とその人自身をただただ受け止めるという行為なのだと思います。

インターネット上で交わされるコミュニケーションの難しいところは、議論をしたいのか話を聞いて欲しいのかが、見えにくいところです。話を聞いて欲しいのであれば、いくら議論しても堂々巡りになりそういうことじゃないんだとなります。

大変面白い話があって、ある大学で公開講義の度に、いつも質問側にたち非常に長くご自身の主張をされる方がいて時間を取られるのに困ったそうです。この発想に至った関係者の方が素晴らしいと思うのですが「こうなったらとその人に講義をしてもらって思う存分話をしてもらったらいいんじゃないか」となったそうで、ある教室を借り切って聴衆もいる中で、その人に思う存分話してもらったそうです。うまくは話せなかったそうだけれどとても落ち着いたそうです。人間には誰しもこのようなところがあります。

私は発信をすることが多いですが、結局聞いてくれている人がいないと成立しないと感じます。本当に大事なのは傾聴者だと思います。投げたものに反応があるからこそ人はそこに理解してもらえたという感覚を得るわけです。読んでくれるから、見てくれるからこそ人は発信できるわけです。

しかし、大人は、特に大人の男性は本当は僕の話を聞いて欲しかったとは言えないように育てられていることが多くあります。強く、弱音を吐かず、理論的に、はっきりとと育てられています。だから、表では主張や議論の形で言葉が出てきます。本当は話を聞いて欲しい、もっと言えば自分のことを受け止めて欲しい、が奥にあってもそれをそのまま言えなくなっています。

話を聞くのは時間がかかるかもしれませんが、話を聞いてもらったことの安心感はとても大きなものがあります。反対に十分に話を聞いてもらえなかった時のストレスは想像以上に大きく、そのストレスが回り回って社会自体を壊してしまって構わないというぐらいに暴力的になることすらあります。大きな事件を起こす加害者の多くが被害者意識を(実際に被害者であることも多い)持っています。傾聴することは主張することよりも大切で、私たちはその練習をするべきだと思います。私たちは話を聞いてもらいたいのです。

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