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インターネットの登場で本当に知識に価値は無くなったのか

長文ファンの皆様おはようございます。

昔はいろんなことを知っている人が賢い人だったが、インターネットの登場でそれが崩れ、知識は必要なくなった、wikipediaを調べればいいし、chatGPTに聞けばいい、と言われることがあります。

しかし、そもそも「知っている」とはどういうことなのでしょうか。

例えば日本の歴史に詳しい人がいます。何を聞いても少なくとも教科書に載っているような史実を知っている。そこでそれだけ知っているのだからと「日本とは何か」と聞いてみます。

日本とは何かを説明するには、相対比較が必要です。まず国家という軸で比較するには他国と比べてどうなのかが必要だからです。そうすると他国の歴史が必要になります。
また日本を構成する一要素である日本人は、人類であり、東アジア圏に住む人々であり、仏教、キリスト教、神道、さまざまな宗教もあります。これらも必要です。

何かを知っているという時に、具体に入れば入るほど知識的ですが、抽象的になればなるほど概念になります。つまり覚えるという類ではなくなり、自分なりに作り上げるということになります。作り上げたものだから、皆共通のものではありません。

仮に全く同じ知識を入れたとしても、来歴が違う人間は違うところに到達する可能性が高いです。1970年代生まれの日本育ちの仏教徒の日本人が思う日本と、2000年代生まれの欧州育ちのキリスト教徒の日本人が思う日本は違って当然です。

知識はネットに任せてという時、その人に「日本とは何か」と質問した場合どんな答えが返ってくるのでしょうか。あらゆる知識と体験が個人の中に内包された結果、その人なりの日本観が出てくるわけです。wikipeiaに「日本とは何か※私なりの思想で」と聞いても答えは返ってきません。

何かを知ることで、それらが次第に絡み合い編み出していき、自分なりの世界の捉え方が生まれていくのではないでしょうか。

私にとってみると知識とは「私からの世界の捉え方」を作り上げたり根拠づけたり覆したり飛躍させたりする、きっかけだと思っています。

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