どうして私たちは自分の特徴に名前がつくと、落ち着くのか。
長文ファンの皆様おはようございます。
私たちはなぜか自分の特徴に名前がつけられるとホッとしたり、落ち着くことがあります。
「ああそうだったんだ」
「こういう言葉ですでに表現されているんだ」
このような感覚はなぜか心を落ち着かせます。しかし、いったいそれはなぜなのでしょうか。
名付けることはそれをグループ化することです。猫という名前は多様な猫をグループ化し、悲しみという言葉は心のモヤモヤをグループ化しました。
猫という名付けによって、四足歩行のふわふわした存在(犬猫混在)から、猫だけが切り出されました。名付けることでそれを認識できるわけです。
人間は自分のことほど分かりません。そこに不安を覚える。自分とは何なのか。自分のこれはいったい何なのか。過去に傷つけてしまったこと、傷ついたこと、引き起こしたトラブル、違和感。これらはどこからくるのかを求めてもいます。
「自分はどこかおかしいのではないか」
おかしいという言葉を定義つけると「常識や中央値から距離があること」と言えます。人間の特徴はグラデーションですから、どこかで線を引かないと普通とおかしいの境目がなくなってしまう。
ここに名前がつくことの意味があります。
名前がつくことで、認識できます。言い換えると客観視できます。得体が知れないものから、得体が知れたものに変わります。表現でき、他者と共有でき、説明可能になる。
自分のこの特徴はこれだったのだ、そしておそらくこれは私一人ではないのだという感覚が、人の心を落ち着かせます。
自分のこの行動の責任を自然や神がになってくれていた時代とは違い、今は全責任を個人が追わなければならない。しかし、自分の人生の責任を負うのはあまりにも重い。
特徴に名前がつく時、これは私が自ら選んだものではなく、私がたまたま持ち合わせたものだったのだ、という感覚を持ちます。私が注意欠陥なのではなく、多動という特徴を与えられていたのだという感覚です。
これは自分が全ての責任を取るという舞台からおろしてくれることを意味しています。落ち着かなくてすいません、からすいません多動なので、への移行です。
このように名づけは人を救ってきました。
一方で、ある特徴をある名前で括ってしまうことは、豊かでグラデーションのある特徴のあるエリアを一つにまとめてしまうことでもあります。そうしてしまうことで、自分をそちらに寄せていくことでもあると思います。
一度名付けた特徴で自分を説明しようとするあまりその枠組みに自らハマりに行って、逆に窮屈になることもあります。
また自分で受け止めるべき出来事から、特徴の名付けによって責任回避することもできます。これは私のせいではない、が可能になる。
特徴の名付けは難しい問題です。器を求めながらどんな器にも入り切らず、ずれていることにあれこれ私たちは悩んでいるように見えます。
この名付けを越えあるがままに目の前の人を見ようとしていたのが河合隼雄さんだったのではないかと想像しています。
とある統合失調症患者が河合隼雄さんのカウンセリングを
「先生は私も見ず、私の過去も見ず、ひたすらに私の魂を見ていらっしゃいました」
と表現しました。
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