体育と教育


体育についてたくさんの言及がありました。体育と日本文化と切り離し難い側面もあり、これをどのように整理していくかが重要だと感じました。以下、論点を整理します。

1、努力すれば技能は獲得可能か

「技術を教えて欲しかった」「やってもできないのにしつこくやらされて嫌だった」というご意見がありました。教員の指導技能でばらつきがある可能性はありますが、これらの背景を突き詰めると「やればできる」と「やってもできないことがある」の対立があるのではないかと思います。所謂スポーツの人間はさまざまな困難を乗り越える経験をしそれが成功体験となっていることが多く「頑張ればできるはずだ」という信念を持つ傾向が見られます。

しかし、これは同時に「うまくできない人にもずっと努力させ続ける」ことにもつながります。実際はやればできることとやってもできないことはグラデーションとなっていて、その境目は極めてわかりにくいです。一方で子供時代のトラウマは大人になっても残り続けることもあります。努力してもできなかったというトラウマと、無理だと思っていたことに挑戦し克服したという成功体験は紙一重であり、そのさじ加減で評価がずいぶん異なるなという印象を持ちました。

2、教育に勝ち負けを持ち込むべきか、また持ち込むべきならその適切な時期はいつか

「体育で評価をしたり順位をつけることが問題だ」というご意見がありました。一方「人生で順位がつけられたり勝ち負けがあることは避けられないのに教育だけそれを除外するのは不自然ではないか」という反論もあります。大切なポイントは資本主義社会を生きる以上、生涯に渡り私たちはある種の競争からは逃げられないということだと思います。

ただ、その競争を乗り切る上で大事な自らの動機は、本当に勝ち負けの経験で培われるのかという疑問があります。結果ではなく過程を誉めた方が努力する子供になりやすいことを主張する研究結果があります。長期的に勝負していく上でむしろ最初は勝負を意識せず面白さや努力自体を褒めるということは十分論理的だと思います。一方、勝負を避けた幼少期を過ごすと、将来社会保障などの弱者救済の施策に否定的になるという研究もあります。競争の経験がなければ人の生来の能力にはたいした違いがないと考え、大人になってからの違いは努力の違いであると考えがちだからだそうです。一体いつ子供に競争をさせるのかは大変難しい命題です。

3、失敗や迷惑をかけることを恥だと感じる社会文化に合わせるべきか、克服するべきか

菊と刀では日本人を理解する概念に「恥」が出てきます。私たち日本人は他国の文化よりも「恥ずかしい」ことを嫌がるまたはそこに着目する性質があります。「うまくできないのにみんなの前で試技をさせられてとにかく嫌だった」「一人だけうまくできなくてチームのみんなに迷惑をかけて嫌だった」という方は多くいます。

米国の試合に出ると驚くほど実力差がある人たちがレースをしています。ハードルをまともに飛べない人が試合に出てくるのです。案の定転びまくってゴールするのですがその時に皆が称え合っている、もう少し正確に言えば大して他人を気にしていません。また、ヨーロッパでもものすごく楽しそうに下手なおじさんがサッカーをやっている風景を目にします。うまくできない人を笑う人もいなければ、うまくできないことを気にする人もいなければ、こういうことができるのだと思いました。

日本には「他人に迷惑をかけてはならない」「人前に出すからにはうまくやらなければならない」とする文化が背景にあると私は考えています。失敗は恥ずかしいことであるという社会規範を個人が自分の価値観に取り込んだからとも言え、留学して急に性格が変わり積極的になる人は多くいます。この恥の性質は社会に秩序を産んでもいると思いますが、同時に日本人がリスクを取れなくなっている根本的原因だと考えています。

だから私はこの文化自体を変えたいと思っているのですが、文化が変わるスピードは遅いですし、若い時に人前で苦手なことをやって笑われる経験は人生に大きな傷を残します。さらに集団競技でうまくできない子供がチームに迷惑をかけることでみんなに文句を言われたなどで傷つきます。そんなもの気にするなと言って、笑う奴らを片っ端から叱りつけたい気持ちと、傷つくからなるべく避けてあげたいという気持ちの両方がありこの加減も大変難しいです。

4、教育はどの程度、苦手なものを克服させるべきか

「苦手なことをやらされて嫌だった」「好きではないことをやらされて嫌だった」という声が多数あります一方で「苦手なものから逃げていてはだめだ。人生には必ず苦手なこともあるからだ」という意見を持つ方もいます。例えば「体育が苦手な子もいれば数学が苦手な子もいて同じことだ」という意見を持っています。しかし、日本での公教育には評価をしなければならないという制約があり、一人ずつ個別に問題を解いて結果を明かさなくてもいい数学と違い、体育は皆が一箇所に集まっているので無理やり無観客でもしなければ試技が目についてしまうこと、また集団競技などの評価はやはり集団競技をやってもらうしかないことなどがあります。そういう意味で評価の際の重圧は他の強化よりもかなり高いと考えられます。

「他の子供ができているのにこの子だけできないのはかわいそうなことだ」と考えるからこそ苦手なことの克服への必要性を感じるわけですが、もしできないことがあっても構わないと考えるなら苦手なものをやらなくてもいいということになります。一方、私は子供の頃人前で話すのが苦手でしたが、ある時閾値を超えるとイキイキと話せるようになりました。こういうことが起きるのが教育の面白いところであり、苦手なものと嫌なものを簡単に除外することは同時にそのこの可能性に制限をかけることでもあります。では一体どの程度苦手なものを無理にでもやらせ、どの程度苦手なものより得意なことをやればいいとするのかはまた難しい問題です。

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