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平等を追求すると、なぜ社会は無個性になるのか

長文ファンの皆様おはようございます。

「平等」はよく聞く言葉ですが、平等について議論する時、一体何が揃うと平等なのかが明確ではないことも多いです。
平等を定義するためには「差異」と、それに上下をつけるための「価値基準」が必要です。

平等と聞いてまずわかりやすいのは格差と機会の平等です。これは是正した方がよいですが、しかしなぜ平等と聞くとこれが浮かぶのか。

それは、現代が「能力が高いものは富を手に入れる」「資産が更なる資産を生む」という仕組みで動いているからだろうと思います。「金銭と能力」という価値基準があるからこそ、その差異を減らすことが平等に近づくことだと感じます。

言い換えれば金銭のみで人の価値を測る社会においては、金銭の平等こそが平等であると言いきれます。しかし、私たちが平等ではないと感じるものは他にもあります。

例えば容姿があります。容姿がいい人は人気になる。格差をなくし機会の平等を揃えても、容姿を揃えることはできません。そして容姿がいい人はモテる。恋愛市場において平等が実現できません。
承認欲求を満たしてくれる社会のアテンションを平等に分配することはできません。それを平等に分配するなら「好き嫌い」を禁じなければなりません。

ルッキズムを批判するためには「こういう顔がいい顔だ。こういう容姿がいい容姿だ」という前提が必要です。美の方向がなく、容姿が重視されない社会にルッキズムは成立しません。

さて、こう整理すると本質的な平等は全くの無個性に着地することがわかります。DNAも同じ、容姿も同じ、社会条件も同じ、住む環境も、教育環境も、家庭も、文化も全て同じになって初めて、平等が実現できます。

さらに平等という時、私たちは無意識にも違う文化圏を外しています。本質的には国家というシステムが人類間の平等を阻害しています。そして価値観です。価値観自体がない社会が平等な社会です。

つまり、平等とは「その社会が重視している人に優劣をつけるパラメーターを人為的に揃えること」ではないかと思います。そうして考えると、そのパラメーターがあまりにバラバラであることを見て途方に暮れます

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