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評価とは比較ではないか。そうであれば、何と比較するのか

長文ファンの皆様おはようございます。

「評価とは比較ではないか」と私は考えています。例えば仮に人生で一度も車を見たことがない人が、車を見てその車がいいか悪いかを判断することは難しいのではないでしょうか。車というカテゴリーそのものの評価はできても。

「目利きができる」人は、その領域で量に触れてきた人なのではないかと思います。
ただ、問題はある狭い範囲だけにふれてきた人は、短い物差しで測る癖がつくのではないかと思います。妙に評価が細かい人が、その領域で異質なものを評価できなくなるのは、今まで見てきたものが量は多くても多様性はなかった可能性があるのではないでしょうか。

もう一つ絶対軸のようなものを想定し、そこから評価する方法もあります。これが基準であるという軸を知って、そこからどの程度どの方向に離れているかを評価する方法です。それも絶対軸にあたる何かを一定量触れることで獲得できるのではないかと思います。型を獲得することが推奨される理由です。

未知のものを評価できる人は、まったくまっさらな状態で評価しているわけではなく、過去に触れてきたものを抽象化し、概念の上で比較し氷解しているのではないかと考えています。車を、移動手段として捉えれば自転車や船のカテゴリーになり、富の象徴として捉えるなら時計や勲章と同じカテゴリーになります。車に私たちは触れますが、車は複数のカテゴリーを内包します。

では、全てが量によって決まるなら、年齢が上がるほどいい悪いの判断の精度は高まるのでしょうか。
私はこの相対的な評価ではない世界、つまり「いきなり惹かれる」ことがあると思っています。突如好きになるやつです。

何かを考えて評価する世界は評価者と距離を置き、観察し、分析する世界です。一方で、いきなり惹かれる世界は、距離を一気に縮めてしまいます。もしかするとそれと一体になるぐらいかもしれません。

量を重ねた相対評価の世界と、いきなり惹かれる世界。前者が強い人は後者に憧れ、後者が強い人は前者に憧れて話をしていることが多いように感じます。

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