気持ちへの配慮とその問題点
私は日本人の特性として、人に気を遣える、つまり人の気持ちに配慮できるという部分はとても優れていると思う。おもてなしや、安全性などの根底には、相手の気持ちを考えるということがあり、それは社会からの影響、学校教育や家庭教育など、かなり早い段階で強化されているのではないかと思う。
それがあまりに自然に身につきすぎていて、逆に言えば人の気持ちを考えないことができない。全員がそのような教育を受けているので、自分が相手の気持ちを考えるように、相手にもまた自分の気持ちが考えられている。この気持ちの読み合いが複雑に高度に織り成しているのが日本社会だと考えている。
人の気持ちを読みすぎる人は生きづらい。相手の行動言動一つ一つを見て自分がどう思われているかが気になり、疲れてしまう。ペットや無邪気な人を見てなぜ癒されるかというと、相手の気持ちを読むということがないからだ。相手がしたいようにしているとこちらは裁かれないので、癒される。
一対一の場面は人の気持ちを考えられることが有利に働く。おもてなしは得意だ。一方で集団になると人の思惑が複雑になり、利害調整が複雑になる。人の気持ちを考えすぎる人は集団での議論が苦手だ。あちらを立てればこちらが立たずの場面では、黙るか、空気を読むか、なびくか、配慮しすぎてコンセプトがなくなるか、整合性がとれなくなる。
優しい人が多い場所では不機嫌が強い。不思議なもので、優しい人は不機嫌な人を見ると、何か自分が悪いことをしたのではないか、機嫌を良くしてもらう責任が自分にあるのではないかと反省し行動する。遠慮せず不機嫌になる人はそれを知っていて周りに気を遣わせ相手をコントロールしていく。
では優しい人はどう生きればいいのか。まず自分にとって大事なものを絞り込むことだ。それ以外はなくなっても大して問題はないと知ることだ。次に距離を調整することだ。近すぎてはならない。意見をいう時は事前に準備をすることだ。優しい人は人の気持ちに揺さぶられ瞬間で整理できない。
また優しい人は相手に合わせることで仲良くなれるという認識を改めなければならない。気持ちを考えすぎる人は、相手の望みを予測しそれを提案してしまう癖がある。また気持ちを配慮しすぎて相手の様子で妥協してしまう。全体として整合性が取れない。仲が良いことと相手にとって都合が良いことを同一視してはならない
個人のレベルでは人との距離を調整し、流されそうになったら一旦停止し落ち着いて何が大事なことか整理する。集団のレベルでは配慮だらけの合意性のない意思決定にならないように、気持ちに配慮という言葉は作法として抑えるようにする。気持ちが集まり空気になり全体を包んだ時、この国における集団は誰にも止められなくなる。