チョコレート・カラード・ネイルポリッシュ
机越しにマグカップを持つ手が、あまりに綺麗だったから、ふいにシャッターを切りたくなって、やめた。
シャッターを切るべき瞬間は、いくつもあるのに、この意気地なしが邪魔をする。
カメラを向けた時、きっと君は今と同じ顔で笑ってはくれない、その顔が崩れるのが、ぼくは何より怖いのだ。
机越しに雑談を交える彼女と僕は、刻一刻と今を消費して生きている。
今、何をしていても、今日のことも、楽しかったこと以外忘れていくだろう。
いつも、感じてることまるごと、シャッターを切って、全部を忘れないようにしたい。
運ばれてきたホットチョコレートと同じ色のマニキュア、バイト後の気だるさ、明日から連休明けの平日のわずらわしさとか、そういうの全部。
今のこの肌寒さも、金木犀の香りも、きみが珍しくしてきたメイクも、今でしかなくて、もう二度と感じることはできないのに、ぼくはこの満ち足りた状況を記録するすべを、ぼくは知らない。
今を閉じ込めたいのに、ぼくの体は、目の前の世界にしか進めない。だのに忘れたくない思い出は積もっていくばかりで、消せはしないのに勝手にいなくなっていく。
ずっと残しておきたいことなのに、たぶん、わからないくらいに少しずつ、少しずつ削れて、全部は覚えていられない。
だから、ぼくは心の中でシャッターを切る。
きみに本当のカメラを向けるのはやめたけど、
でもやっぱり、感じたいことが多すぎて、どれも取りこぼしてしまうのなら、ひとつだけ、確かになにかを覚えていたい。
いっそ、カメラなれたらいいのに。
自分の視覚で、美しいものだけ切り取って、見るたびに胸が震えるような、素敵なものだけ残しておきたい。
ぼくの眼で感じた美しさだけ、思うままに残せるのなら、どんなに幸せだろうか。
この気持ちを、風化させないで、ずっと取っておきたい。
この気持ちごと、ずっと取っておきたい。
ぼくがいなくなったあとも、ずっと、朽ちないように、気持ちだけ置いておけたらいいのに。
ぼくはチョコレート色のネイルポリッシュに瞳の中でシャッターを切る。もう二度と会えないと悟って、かなしみと一緒に閉じ込めておきたかったから。