葬式で泣いてもらえるひと
「葬式で人が泣いてくれるような人になりたい」
と、友人は言った。要は人徳のある立派な人になりたいとのことだと思う。
私は考えるより先に口走ってしまった。
「マジで???」
納骨に立ち会う現代人は、何を考えるのだろうか。私はぶっちゃけ、死ぬことよりも、暗い墓の中に永久に閉じ込められる(面識のない先祖と一緒に)方が怖い。
ましてや結婚して別の家の墓に入るなんてまっぴら御免である。
知らん骨に囲まれて放置されるの、怖すぎる。
祖父の葬儀に立ち会ったとき、葬式も納骨もイメージと違ってショックだった。
祖父は骨壺にコンパクトに詰められ、文字の彫られた石の中に入る。
土には還らない。
それはつまり、現世に留まるということ。仏に成る修行も、生まれ変わることもできない。と考えると、仏教的な循環を邪魔してるし、誰の得にも成らない。
伝統、とか、幸せの形として象徴されがちだけど、ほんとにそうなん??
号泣していた祖父の葬式で、祖母は私に、
「こんなに泣いてくれる孫がいて、おじいちゃんは幸せだね」と言った。
でもそれは違う、と思った。
祖父のことは好きだったけど、極端な話、道端で死んだ猫にだって、同じくらい涙を流したと思う。
身近な死にショックを受けていたから泣いていたのだ。(祖父のことは好きだったけど)
葬式は生きている人たちのためにある
その人が死んだことを理解して、その先に進むための区切りを作るための儀式だ。
死者はなにも決められないし、参加者は死者がそのあとどうなるのか、あまり興味もない。そこに参加して、悲しんで、切り替えをするためにある。
決して死者のために行われるものじゃない。
もし自分の葬式で誰かが泣いてくれて、魂だけになった私はそれを見て、
ああ、私のせいで…もうちょっと生きるべきだった…成仏するのやめよかな…って感じで、地縛霊か何かになって現世に留まるはずだ。
だから私は、葬式でだれかに泣いてもらうことを目標には出来ない。
生きてるうちに、感謝と愛をたくさんくれる人たちに囲まれて暮らしたい。
それが、今の目標である。