【全文公開】 二〇二一の新人と「新しさ」について
小説新潮2022年6月号、「2021年に生まれた新人作家」特集に寄稿した評論を全文公開します。2021年にエンタメ系の公募小説新人賞を受賞(受賞発表or受賞作刊行)した、20作を分類&書評しています。
Prologue.1 「新しさ」を考える
小説の歴史は、先人たちの作品、物語のデータベースを、新人たちがアップデート(更新)する営みの連鎖だ。先人たちの後に作品を世に出したからではなく、小説の歴史に何かしらの「新しさ」を付け加えるからこそ、新人と呼ばれるのだ。それはデビュー後間もない作家に対し、慣用表現としてよく使われる「新人離れ」という一語が、「巧さ」や「面白さ」に関わるものであるという事実からも明らかだ。「新しさ」は、「新人らしさ」そのものである。
では、「新しさ」とは実際のところ、どんなものなのだろう? 千差万別、としか言いようがない。そこで、まずは二〇二一年の小説界の最大の成果として知られる作品を例にあげることで、「新しさ」を具体的かつ直感的に理解していきたい。朝井リョウの『正欲』だ。作家生活十周年記念の書下ろし長編として発表された同作は、直木賞作家が次のステージとして目指す賞として知られる第三四回「柴田錬三郎賞」を受賞し、二〇二二年「本屋大賞」四位に輝いた。デビューから一〇年以上経ってなお、新人であり続ける人もいるという好事例だ。
Prologue.2 「新しさ」は(少なくとも)四種類
とある刑事事件のニュース記事が冒頭に置かれた『正欲』は、事件の前後の出来事が直接的・間接的な当事者たちによって語られる、多視点群像形式が採用されている。誤解が生じないようディテールは伏せるが、その事件の中心人物は「性的マイノリティの中のマイノリティ」である。まずはこの①題材選びに、他では読めない圧倒的な「新しさ」が宿る。と同時にその題材選びは、あっという間に流行語となりカジュアル化の過程で急速に意味を損失した「多様性」の一語と今一度向き合い、②マイノリティの視点に立って世界を眺め渡すことから、現代社会や現代人の有り様を記述している。
さきほど新人は先人の物語をアップデートすると記したが、『正欲』が対象に指名した作品は、吉田修一がデビュー十周年に刊行した『悪人』だ。『正欲』は『悪人』同様、刑事事件を真ん中に据えた多視点群像形式のミステリーであり、実はラブストーリーであるという点においてシンクロしている。しかし、残り九〇ページのところである登場人物から人生の選択にまつわる決定的なセリフが登場し、ラストで噴出する世間VS個人の戦いにおいて『悪人』とは正反対の結末が導かれている。『悪人』が単行本刊行された二〇〇七年はおそらく、まだ「世間」なるものが強力に機能していた。『正欲』が発表された二〇二一年は、個々人の「正しさ」が乱立した時代に突入している。二〇〇七年には絶対に知り得ない二〇二一年の現実を物語に取り込むことで、③先行作品のアップデートを試みたのだ。そのうえで、④新しい希望を表現することに成功している。
ここまで記述してきた『正欲』における(少なくとも)四種類の「新しさ」は、現代小説を取り巻く「新しさ」の傾向として取り出すことができるのではないだろうか? 個々の項目は完全に独立しているわけではなく、重なり合って存在していることを踏まえたうえで──
①題材の新規性
②マイノリティの視点
③先行作品のアップデート
④新しい希望の表現
以降、本稿ではこの四項目を「新しさ」のカテゴリーとして採用し、二〇二一年度のエンタメ系公募新人賞を受賞してデビューした、新人作家の作品を分類していく。なお、二〇二一年度の受賞作全般に関しては、第一二回「小説野性時代新人賞」の選評における選考委員の指摘を支持したい。<(引用者註・最終候補作はいずれも)しっかり時間をかけて書かれたという印象があって、その点はとてもよかったと思う>(森見登美彦氏)、<今回の選考では、過去にない読感を受けた。かねて、「もう少し推敲できなかったのか」と思わされる様々な点が、軒並みクリアされていたのである。個人的には、コロナによる巣ごもりが結果的に創作者に内省を促し、原稿を見直す機会となったのではと感じている>(冲方丁氏)。紹介できなかった作品も含め、総じて完成度が高かったです。
①題材の新規性
このカテゴリーは、わかりやすく「新しさ」が表現されていると言っていい。先行作品では(ほとんど)書かれてこなかった題材を取り上げることで、小説の歴史に新たな一ページを付け加えている。
第二〇回「『このミステリーがすごい!』大賞」大賞受賞作『特許やぶりの女王 弁理士・大鳳未来』(南原詠)のヒロインは、弁護士ではなく、弁理士。かつてパテント・トロール(特許侵害の無茶な裁判を起こし大金をふんだくる「特許ヤクザ」)だった大鳳未来は、今では相方の弁護士と共に防衛専門の特許法律事務所を立ち上げ、弱者の味方として活動していた。最新のクライアントは、VTuber事務所。所属する人気VTuber・天ノ川トリィが使用している映像技術が、専用実施権の侵害だという警告書が届き──。弁理士という職業自体も新鮮だが、そこにVTuberをぶち当てることで「新しさ」のトピックが倍加する。結末部で専門知識の新情報が入ってくる展開はやや快感に欠けるが、親しみのない情報に触れる楽しさはある。
第八回「新潮ミステリー大賞」受賞作『午前0時の身代金』(京橋史織)は、③先行作品のアップデートの項目とも大きく関わる。新米弁護士・小柳大樹のもとへ法律相談にやってきた女性が誘拐事件に巻き込まれた。犯人は身代金十億円を、クラウドファンディング(インターネット上で不特定多数から資金を集められる制度)で募集するよう要求した。誘拐ミステリーの真骨頂である身代金受け渡しを、まさかこんなやり方で実現しようとするなんて。本作の白眉は、「そんな前代未聞なこと、どうやったら実現できる?」というシミュレーションを作中で徹底展開しているところにある。「現金を会社に持ってきて援助したいとか言い出す人が現れたらどうする?」「手間暇かかって迷惑だな!」(大意)という会話を始め、人間の本性が議論の俎上にのせられていくのだ。前半はサスペンス全開だが、中盤以降は犯人探しのミステリーへと徐々にスライドしていく構成にも満足感があった。
前年度までと異なり、二〇二一年度の新人賞投稿作の多くは、時期的にコロナ禍突入以降に執筆されたと考えられる。ただ、コロナ禍を題材として直接的に取り上げた作品は、ほとんど見当たらなかった。ほぼ唯一の例外は、「女による女のためのR-18文学賞」の歴史上初めて、大賞・読者賞・友近賞をトリプル受賞した「ありがとう西武大津店」(宮島未奈)だ。
コロナ禍の夏、滋賀県大津市唯一のデパートである西武大津店が八月三一日をもって営業終了することが決まった。閉店までの期間、ローカル局の情報番組が西武大津店から生中継をするという。中学二年生の島崎は、同級生の成瀬が「この夏を西武に捧げようと思う」と言って始めた、ライオンズのユニフォーム姿での生中継の映り込みを面白がり、自身もちょこちょこ現場に顔を出すようになり……。若者ゆえの驚くべき非生産的発想とユーモアの中に、コロナ禍ゆえの切実さが二重三重に隠されている。原稿用紙五〇枚弱と短いが、コロナ禍の精神性を切り取った最初にして最良の一作として記憶されることだろう。
第二五回「日本ミステリー文学大賞新人賞」受賞作『クラウドの城』(大谷睦)は、殺人事件の舞台として「データセンター」をチョイス。東京区検の「分室」の検事を主人公=探偵役にした第三回「警察小説大賞」受賞作『転がる検事に苔むさず』(直島翔)、博士号取得後に北海道警察入りしたヒロインの第六七回「江戸川乱歩賞」受賞作『北緯43度のコールドケース』(伏見美紀)は、どちらもクライマックスの取り調べシーンで、それぞれの主人公ならではの新味があった。
②マイノリティの視点
人は、誰もが何かしらの点でマイノリティ(多数派ではなく少数派)である。それは弱点ではなく、個性だ。あらゆる小説は登場人物たちの個性=マイノリティ性に注目しながら書き進められている。「普通」ではない人生を描くことは、「普通」の人生を逆照射することにも繋がる。いかなるマイノリティ性に着目するかは、作家の創造性に直結する。
第一二回「小説野性時代新人賞」受賞作『君の顔では泣けない』(君嶋彼方)は、コメディ路線が基本の「男女入れ替わりもの」でありながら、シリアス路線を突っ走る。高校一年生の夏に入れ替わった同級生の男女が、三〇歳になった今も元に戻れずにいる。その現実を冒頭に提示したうえで、入れ替わった相手と励まし合いながら過ごしてきた一五年間の人生が、女性の体に入った男性の視点から語られていくのだ。いわばトランスジェンダー小説である本作は、「女の人生」のしんどさを女になってしまった男視点で綴ると共に、第三者視点からかつての己の身に降りかかる「男の人生」のしんどさをも描き出す。この設定だったから、男女双方の性役割規範からもたらされる呪いをリアルに書くことができた。
だじゃれみたいなタイトルが楽しい第二回「氷室冴子青春文学賞」大賞受賞作『ブラザーズ・ブラジャー』(佐原ひかり)は、父の再婚により中学二年生の弟が突然できた、高校一年生のちぐさの物語。美少年の晴彦との距離感が摑めないなか、間違えて入った部屋で目にしたのはブラジャーをつけた弟の姿。「もしかして、そういう性癖の」と直撃するちぐさに対し、晴彦が「ふつうにおしゃれでやってるんだよ!」と返した瞬間、カテゴライズできない性というテーマと、シチュエーションコメディのスイッチが入る。相次ぐ意外な展開の先に現れる「おれは、好きだって気持ちを大事にしたい」というセリフは、言葉だけ取り出すと新鮮さはない。が、そこに至る展開を読みこなしていれば、問答無用でグッとくる。
第六七回「江戸川乱歩賞」受賞作『老虎残夢』(桃野雑派)は、中国史を材に採り、孤島の雪密室で殺人事件が起こる特殊設定ミステリー。そこに女性同士の恋愛の要素を絡めることで、事件の背景に奥行きをもたらせている。第一五回「小説現代長編新人賞」奨励賞受賞作『桎梏の雪』(仲村燈)は、江戸の将棋三家──大橋本家・伊藤家・大橋分家による名人争いの物語。読み終えたところで事実関係をググったところ、そこが創作(=新説)だったのか、と度肝を抜かれた。その一手は、江戸と将棋界を活写するうえで、まぎれもなく妙手。
日本ファンタジーノベル大賞2021受賞作『鯉姫婚姻譚』(藍銅ツバメ)は、古き良き人魚伝説に『千夜一夜物語』をジョイント。池の人魚が家の主人に求婚し、主人は結婚を諦めてもらうために、人と人ならざる者との結婚にまつわるおとぎ話──クィアな異類婚姻譚を語り聞かせる。「普通」ではない夫婦の物語に対する、人魚の意外なリアクションを受け取ることで、主人と共に読者の「普通」も揺さぶられる。従来の価値観からはあまりにも遠い地点で起こるラストの出来事が、納得とともに受け止められること、それ自体に驚く。
③先行作品のアップデート
ミステリーやSFなど、時に「ジャンル小説」と呼ばれる作品は、研究論文の書き方が採用されていると言われることがある。先行作品にはどのようなミステリーのトリック、どのようなSF的アイデアがあると直接的・間接的にまとめたうえで、本作はこれこれこういう点で当該ジャンルの歴史に新しさを付け加えている、と記すのだ。
もっともわかりやすい例は、第二〇回「『このミステリーがすごい!』大賞」文庫グランプリ受賞作『密室黄金時代の殺人 雪と館と六つのトリック』(鴨崎暖炉)だ。裁判で密室殺人における密室性が解かれなければ、被告人は無罪──。その判例により密室殺人が横行するようになった、パラレルドワールドの日本が舞台。陸の孤島状態の「雪白館」で、密室殺人が連発する。ジョン・ディクスン・カーの代表作『三つの棺』における「密室講義」はもちろん、「ノックスの十戒」も今どき珍しいくらいまっすぐ引用。登場人物に「新しい密室トリックなど存在しない」と言わせたうえで、勇猛果敢に「新しさ」へのトライアルをかける。第六三回「メフィスト賞」受賞作『スイッチ 悪意の実験』(潮谷験)は、リチャード・マシスンの短編「運命のボタン」の設定をなぞる。スマホにインストールされたスイッチのアプリを押せば、幸せな家族が破滅する──。しかし、本作は「性悪説」では終わらない。そこから「性善説」へと反転攻勢ののろしを上げるのだ。
SFジャンルでは、第九回「ハヤカワSFコンテスト」大賞受賞作『スター・シェイカー』(人間六度)が先行作品をアップデートする明白なシグナルを発していた。人類がテレポートの能力に目覚めた世界で、少女を守るため東京から沖縄への逃避行を始めた主人公の名前は、赤川勇虎。アルフレッド・ベスターのテレポートSF『虎よ、虎よ!』の本歌取りだ。ハリウッド映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード』をはじめ他ジャンルの物語を取り入れるのみならず、最新物理学とタイマンを張りにいぃ大胆不敵さも「新人らしさ」マックスだ。
アイデアは、質も大事だが、量も大事だ。Aのアイデアだけならば凡庸だったとしても、Aとαのアイデアを組み合わせれば、他作品と似る確率はガクッと下がる。A+α+π+……と足し算を続けるうちに、量が質(新しさ)を生み出すこともある。
例えば、工業高校の女子三名を主人公に据えた第二八回「松本清張賞」受賞作『万事快調』(波木銅)。選考委員の東山彰良は<アメリカのドラマ『ブレイキング・バッド』とアーヴィン・ウェルシュ『トレインスポッティング』、入江悠監督『SR サイタマノラッパー』をうまくサンプリングした>と選評で記していたが、他にも無数の物語からの影響が感じられる。しかも、そのことが一切隠されていない。固有名詞の的確な使い方から書き手がクレバーであることは間違いないが、根本的な部分で自由かつ無邪気。文章全体に落語用語でいう「フラ」、なんとも言えぬおかしみや愛らしさが漂っているのは、それが理由だ。
第四一回「横溝正史ミステリ&ホラー大賞」大賞受賞作『虚魚』(新名智)は、「人が死ぬ怪談」を探している若き怪談師・丹野三咲の物語。同居中の友人・カナちゃんは、「人が死ぬ怪談」を利用して自殺したいと願っている。利害一致の二人が目下、可能性を追求している怪談は「釣り上げたら死ぬ魚」。その元ネタを探る過程で、さまざまなバリエーションの怪談が顔を出すとともに、人々が怪談を語る意義というテーマに辿り着く。ネタを掘り下げ、積み上げていったからこそ触れることのできる真実だ。
第一五回「小説現代長編新人賞」受賞作『檸檬先生』(珠川こおり)は、『こころ』(夏目漱石)に象徴される「先生と私」ものの最新形だ。音を聞くと色が見え色を見ると音が聞こえる、「共感覚」の持ち主である八歳の少年が、一五歳の少女と師弟関係を結ぶ。初々しくも懐かしい憧れの雰囲気は一転、檸檬先生は最初は無意識のうちに、やがて意識的に「私」の人生に影響力を行使し始める。現代社会の各種ハラスメントでも話題となっている、「先生と私」の関係に宿る加害性を見つめる、苦みのある青春小説だ。
日本の小説ではなかなかお目にかかることがない海洋冒険ロマンにチャレンジしたのは、第三四回「小説すばる新人賞」受賞作『コーリング・ユー』(永原皓)だ。海洋研究所に勤めるイーサンと飼育員のノアは、国際バイオ企業の依頼でとある海底資源を引き上げるために、ロシア沖で捕獲された仔シャチ・セブンの訓練を始める。実はセブンは、並外れた知能の持ち主だった──。セブンことカイのおしゃべりが要所要所で挿入される「擬人化小説」の側面も持つ本作は、当該ジャンルが陥りがちな子供っぽさや説教くささを、巧妙に回避する。当該ジャンルは海外アニメーションでよく表現されてきたが、非人間に、人間的な恋愛観を導入するストーリーテリングが長らく議論の対象となってきた。非人間同士の関係性から、恋愛を排除する難しさと新しさに、さりげなくチャンジしている点も好感が持てる。
④新しい希望の表現
このところ各国の文芸シーンで“ディストピアSF”がブームとなっているが、その一方で、現実こそが地獄であるとする“現代ディストピア”ものも一世を風靡している。冒頭に掲げた『正欲』は後者の同時代的想像力と連帯し、この世界が地獄であることを描写し尽くし、現実と物語のへその緒をイヤというほど結びつけていった先で、ラストにおいて新しい希望を提示してみせた。
同種の手続きで希望を出現させたのが、第九回「ハヤカワSFコンテスト」優秀賞受賞作『サーキット・スイッチャー』(安野貴博)だ。人工知能による自動運転が普及した二〇二九年の日本、東京。自動運転アルゴリズムの開発者でスタートアップ企業の社長である坂本義晴の乗る車が、カージャックされた──。職を失った元ドライバーが主人公を襲うという冒頭のエピソードは、ちまたでよくある「AIが職を奪う」という議論が、浅瀬にすぎないことを暗示している。自動運転における最新の議論は、その先にあるのだ。ハリウッド映画『スピード』のストーリーラインにその議論を搭載したうえで、コロナ禍で注目を集めた「イスラム教と科学」(=イスラム教国は非科学的思考による反ワクチン運動がごく少なかった)の問題などさまざまな現代トピックにもタッチしたうえで、一連の事件の「謎」が明かされる。その真相は極めて“現代ディストピア”的だ。しかし、物語はそこで終わらない。絶望と希望が五分と五分でがっぷり四つに組み、主人公の選択を導き出してみせるのだ。
第一一回「アガサ・クリスティー賞」大賞受賞作『同志少女よ、敵を撃て』(逢坂冬馬)は、第二次大戦下における「独ソ戦」という日本人に馴染みのない歴史的題材を取り上げた。しかも、ソ連軍に実在したことで知られる、女性狙撃兵が主人公だ。ノンフィクション作家でありながらノーベル文学賞を受賞したスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの主著『戦争は女の顔をしていない』に大きな影響を受けつつ、こう言ってよければラノベ的な(竹町の『スパイ教室』的な)パートやキャラクター表現を導入することで、この時代と読者の距離を近付けることに成功している。もちろん、メインをなすのは絶望的な悲劇であり、人は戦争を起こすという現実観だ。しかし、透徹したリアリズムによって表現されたディストピアの先で、最後の最後に希望が現れる。
本作が2022年「本屋大賞」を受賞した際、逢坂冬馬はロシアによるウクライナ侵攻──戦争のニュースに言及し、次のように述べた。「私の描いた主人公セラフィマがこのロシアを見たならば、悲しみはしてもおそらく絶望はしないのだと思います。彼女はただ一人、あるいは傍らにいる誰かと町に出て、自分が必要とされていると思ったことをするのだと思います。なので私も、絶望することはやめます」。
小説は、そのままでは飲み込みづらい現実、絶望を、物語のオブラートにくるんで知らしめる機能がある。しかし、超情報化社会となった現代を生きる人々は、この現実に横たわる絶望についてはイヤというほど知っているのだ。もちろん絶望を無視してしまえば、物語は単なる絵空事に堕ちる。絶望は必要だ。絶望と向き合う手続きを誠実におこなったうえで、ある段階で「絶望することはやめ」る。そこで現れ得る、物語作家だからこそ生み出せる、希望が見たい。
Epilogue. 台湾のことわざを引用する
台湾のデジタル担当大臣オードリー・タンが、著書『まだ誰も見たことのない「未来」の話をしよう』で、台湾のことわざが自らのプリンシプル(原理原則)の一つであると表明している。「抛磚引玉(ほうせんいんぎょく)」。その意味は、<自らが粗い詩や未成熟な意見をはじめに出すことで、多くの優れた反響を引き出すこと>(近藤弥生子訳)。粗く未成熟極まりない本稿も、そのプリンシプルを基に書かれた。
※小説 野性時代2022年6月号に掲載された筆者とマライ・メントラインさんとの対談で、「④新しい希望の表現」について少し別の角度から語りました。筆者の発言部分のみ取り出して掲載します。
〈アメリカだと9・11以降、日本だと3・11以降にディストピアの小説がどっと溢れ出してきました。ディストピアものの想像力の根幹にあるのは、現実社会の戯画化ですよね。要は「この現実こそが地獄」というアラートを鳴らすってこと。でも、アラートは現実で既に鳴りっぱなしなんですよ。僕は去年の夏にようやくTwitterを始めてみたんですが、いろんな人がいろんな形でアラートを鳴らしていて、マジでこの世は地獄だなと思いました(苦笑)。なおかつこの二年以上も続くコロナ禍で、「この現実こそが地獄」という感触が日常の空気の中に入り込んできていました。そこへ来て、ロシアによるウクライナ侵攻を目の当たりにしてしまった。結論としては、「ディストピアものは相当うまくやらないともう厳しいんじゃないか」という気がすごくしています〉
〈ディストピア化した現実を前提としたうえで、どんな物語を描くのか。二〇一七年に米国のファンタジー作家アレクサンドラ・ローランドが提唱した、「ホープパンク」という概念がヒントになるかもしれません。僕は「SFマガジン」2022年2月号に掲載されたSF評論家・橋本輝幸さんのテキスト(「ホープパンクの誕生──なぜ抵抗が希望なのか」)でこの概念を知ったんですが、まず大前提としてアメリカでは「グリムダーク」というSF・ファンタジーのサブジャンルがあるんですね。これはものすごく手短にいうと、ディストピアものなんです。その「反対」の概念として提唱されたのが、ホープパンクでした。ジャンル名というよりもスタンスの問題で、英語のWikipediaでは「グリムダークが拒否するもの、つまり希望の重要性と、逆境にもかかわらず理想が戦う価値があるという感覚を強調する文学的なトレンド」と紹介されています。橋本さんは「残酷な現実を乗り越えるため、共闘する」「あきらめずにまっとうさや優しさを貫く姿勢、それがホープパンクだ」と記していました。〉
〈ホープパンクはSF・ファンタジー作品のみに適用されるものではない、と個人的には思っています。ユートピアやハッピーを描いているわけではないんですよ。「この現実こそが地獄」というディストピア感をがっつり引き受けたうえで、いかに希望を見出すか、そこに想像力のリソースを費やそうということだと思うんです。ディストピアものの先に出てくるものとして非常に納得できましたし、日本の文芸でもホープパンク的な「希望」を描く作品が出てきているな、という実感にも合致しました。〉