どん詰まりのゴロにこそ活路あり。渡辺直人選手が明かす「野村克也さんの教え」
新聞記者をしていた当時は、取材対象の皆さんと食事をする機会がそれなりにあった。
個人的には、プロの記者として呼ばれているからには「メシの席の話だから書かない」というのはないと思っていた。
だから「これは読者が喜ぶだろうな、というエピソードは基本書きます」というスタンスは明かしていた。
それを相手に忘れられてはいけないから、食事の最中も「書く気満々」の姿勢は出し続ける。
いい話と思ったら、分かりやすくにじり寄って聞く。浦和レッズの柏木陽介選手などにはよく「ホンマすぐにスイッチ入るな!」とあきれられた。
そして、「本当に書きます」という意思表示も兼ねて、記事を書く前には必ずもう一度本人に取材する。
ご飯の席で聞いた話をもう一度持ち出し、その言葉の本意を確認する。
幸いにしてほとんどの選手、関係者が、記事にすること自体には同意してくれた。ただ、どうしても話を書かせてもらえなかったケースが、1つだけあった。
ものすごく示唆に富んだエピソードなので、当時はすごく残念に思った。未練がましく「せめてご家族にだけでも読んでもらっていいですか?」と本人に原稿をLINEで送ったのを思い出す。
72歳の温和な知将が発した「殺気」
「ダメだよ。だってなんかすごく美談すぎるでしょう。恥ずかしいわ」
渡辺直人内野手は、そういってカラカラと笑っていた。物腰はやわらかかったが、頑として許可はくれなかった。
現在は楽天に選手兼コーチとして在籍。僕が日刊スポーツ新聞社で野球記者をしていた2017年はまだ、西武でプレーしていた。
渡辺選手とは同じ茨城県出身のよしみで、何度も食事をご一緒させていただいた。
いつも「オレはやっぱり、野村さんのおかげでこの年まで野球で飯を食えているから」と言っていた。
三菱ふそう川崎から大学生・社会人ドラフト5位で楽天に入団した2007年、チームの指揮を執っていたのが、あの野村克也監督だった。
すでに26歳だったこともあるが、渡辺選手は下位指名ながら、ルーキーイヤーの半ばから遊撃手としてレギュラーに定着した。
最終的に、12球団の新人選手で唯一、規定打席到達を果たした。
プロ2年目は開幕から1軍で活躍。誰もが主力と認める存在になった。だがある日、抜てきをしてくれた野村監督から突然、すさまじいカミナリを落とされた。
ベンチ裏で呼び止められ、いきなり「お前、なめとるやろう!?」と迫られた。冗談かと思ったが、あきらかに本気だった。
もう天狗か。自分の立場にあぐらをかいて、必死さが見えない。偉くなったもんだな。野村監督はそんなようなことを言っていたという。
当時すでに72歳。だが、あまりの勢いに渡辺選手は気圧されて、言葉すら発することができなかった。
「普通、その年齢でそんな殺気を出せます?普段そんなことを言わないから余計に効く、というのもあったかもしれませんね。いずれにしても、ハッとしました。態度をあらためることができた」
汗をかいた焼酎ソーダ割のグラスを眺めながら、食事の席の渡辺選手はしみじみと語っていた。
「どんな監督も助けられる」打法とは…
そうやって渡辺選手は、数々の「野村さんの教え」を語ってくれた。
その中でも、僕が一番好きなもの。それがまさに「美談すぎる」と言って書かせてもらえなかったエピソード「セカンドゴロの勧め」だ。
ルーキーイヤー。渡辺選手は先発に定着した直後、さっそく3割を超える打率をキープしていた。
内角寄りの速球をきれいに引っ張り、落ちたり逃げたりする変化球もうまく拾い上げる。そうやって社会人時代と同様に、レフト方向への安打を量産。打撃のセンスは高く評価されていた。
だが野村監督は、ヒットを量産する渡辺選手にあえて「右方向にどん詰まりの打球を打つ練習をしろ」と勧めたという。
「狙ってどん詰まりのセカンドゴロが打てるやつがいると、どんな監督も助かる。つまり、それさえできれば、お前はずっとこの世界でメシを食っていける」
走者が一塁にいる場面で、勢いのないセカンドゴロを打つ。するとかなりの確率で進塁打になる。打球が弱ければ弱いほど、その確率は高まる。
しかもバントと違って、変化球がくればライト方向にヒットを打てる可能性も残る。意図的にタイミングを遅らせている分、遅い球への対応は容易だ。
きわめて合理的な意見である上に、のちに前述の通り「すさまじいカミナリ」を落とされたこともある。やがて渡辺選手は、野村監督の教え通り、詰まったセカンドゴロを打つ練習を始めるようになった。
誰にでもできそうで、実はできないこと
投球に押し込まれた形で、バットの芯を外して打つと、右打者の場合は右手の親指の付け根に鈍く重い痛みが走る。木製バットで剛速球を打つプロの世界ではなおさら。あまりの痛みに、親指の付け根に衝撃吸収材を当てる選手も多いほどだ。
痛みを伴う打撃を、延々と続ける。やがて渡辺選手の右手は、ピンポン玉が入ったかのように大きく腫れ上がった。
左手にも力が入らない。へとへとになって自宅に帰っても、うまくドアノブをひねることができない。なかなか家に入れず、玄関先で途方に暮れたこともあったという。
普通の選手は痛みゆえに、詰まらされるのを避ける。そこを渡辺選手は「痛いのが当たり前」になるまで、練習から詰まり続けた。
そうやって、常にギリギリまでボールを引き付けてからバットを出せるようになって、渡辺選手は変わった。
たとえカウント的に追い込まれても、ファウルで粘れる。詰まったセカンドゴロで走者を進められる。しぶとくライト前に打球を落とせることもある。
三振も併殺も減り、四球は増える。誰にでもできるようで、実はなかなかできないスキル。それはいまや「松坂世代最後の現役野手」となった渡辺選手を支え続ける武器になっている。
自分の「存在意義」を考える
自分だからこそできることをつくる。
渡辺選手を真のプロたらしめた野村さんの教えは、あらゆることに通じている。
レフト方向にヒットを打つ。それだけなら、渡辺選手以上に長けた選手は何人もいる。外国人選手のように飛距離も伴う選手もいるだろう。
その方向性で「自分だからこそ」を目指すというのは、本人にとってもそうだが、何よりチーム側にとってあまり計算が立たない。
逆に「こうすれば、どんな監督も助かる」というのは、チームにとって必要なことからの逆算で生まれる方法だ。計算が立つのは自明と言っていい。
生き残っていくための存在意義。それを選手に示していた野村監督は、きっと自分の「存在意義」について誰よりも突き詰めて考えていたんじゃないかとも思う。
野村監督の現役時代は巨人の長嶋さん、王さんの全盛期と重なる。
華やかなプレーで国民を熱狂させる2人に対して、人もまばらなパ・リーグの球場を主戦場とし、ポジションも地味な捕手。
そんな野村監督は「彼らはヒマワリ。自分は月見草」という名言を残した。
大学球界のスターとして鳴り物入りでプロになった長嶋さんに対し、野村監督はドラフト外で南海に入団。1年目のオフには、いったん解雇通告すら受けた。
しかしそこから、徹底して投手のクセを見抜くという手法で、苦手だった変化球対応を克服するなどして開花。戦後初のリーグ三冠王に輝き、8年連続本塁打王という偉業も達成した。
また捕手としても、データ解析を根拠としたリード、駆け引きで打者を翻弄。
それまであまり重視されていなかった捕手というポジション自体を「試合をつくるチームの要」にまで高めた。
監督になってからも、カリスマ性で巨大戦力をまとめる長嶋さんに対し、野村監督はデータ重視の「ID野球」を掲げて戦った。
そして若手選手を育て、他球団で戦力外になった選手を再生させることで戦力を補完し、3度の日本シリーズ制覇を果たした。
自分ならではの「世の中から必要とされる価値」とは何なのか。
ただただ、ヒマワリになれないことを憂えて終わる選手もいるかもしれない。だが野村監督は自分の存在意義を明確に打ち出し、長嶋さんとは違った形で価値を生んだ。
そしていつしか、ヒマワリをも超えるような大輪の花を咲かせた。
だからこそ、周囲に対しても「存在意義のつくり方」について、的確なヒントを与えることができたのだろう。
それは渡辺選手の例からも明らかなように、たまたま生まれる価値ではない。ニーズから逆算して、狙ってつくる価値だ。
野村監督は「勝ちに不思議の勝ちあり」とおっしゃった。だが生み出した価値については「不思議の価値なし」と言えるかもしれない。
◇ ◇ ◇
今年2月に、野村監督がお亡くなりになったからだろうか。
今回、渡辺選手は「そうだね。今ならむしろ書いてもらった方がいいかも」とエピソードを書くことを許してくれた。
きっと、恩師の教えが語り継がれていくことを望むのだろう。
彼が授かった「存在意義」は、セカンドゴロを打てるスキル以外にも、もうひとつあるように思う。
野村監督の指導を受け続けた渡辺選手は、その教えを次世代に伝えるという点でも、世の中から広く求められる立場になっている。
それは現役を続けながら、すでにコーチを兼任していることからも明らかだ。
そして、教えを伝える対象は、何も野球選手に限らない。
組織や社会が何を求めているのかを知り、自分に何ができるのかを分析する。そうやって自分の存在意義をつくっていくのは、あらゆる業界に通じる形だ。
渡辺選手とは、日刊スポーツ新聞社を退社して野球取材の現場を離れた今も、たまにだが連絡を取る。
やりとりの最後は、彼が締める。
「お互い頑張っていきましょう」
その言葉がまさに、僕に考えさせる。
さて、自分にはどんな存在意義があるのか。どんな価値を生み出せるのか。