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コロナ禍のシーズンを戦う西武・辻監督。苦境にも動じない背中に、僕は励まされる。


記者は取材対象に育てられるところがある。
その意味で「どういう担当を任されるか」というあたりに、記者の人生は左右されるところはある。

その点、僕はとても恵まれていたと思う。
あのオシムさんを、ジェフ時代から代表監督時代に至るまで取材させてもらったのは、人生の財産だ。

浦和レッズのミハイロ・ペトロビッチ監督を取材できたのも、貴重な経験だった。
特に2015、16年と、素晴らしいサッカーを実現していたシーズンに担当をさせてもらえたのは、番記者としてとても幸運だった。

そして2017年、新聞記者としての最後の年に、西武ライオンズの辻発彦監督を取材させてもらった。
3年連続でBクラスに沈んでいた名門を、2年連続リーグ制覇に導いた令和の名将。そのチームの船出に立ち会えたのは、本当にありがたい経験だった。

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就任したばかりのところから取材をする。
これには、ストーリーを追っていく都合以外のメリットもある。

僕は40歳にして、初めてプロ野球の球団担当をする身だった。
すでに他の記者との人間関係が構築されているところに、後から割って入っていくとなれば、一定の信頼を得るのにかなり時間がかかっただろうと思う。

だが、新監督のもとでの取材は、あらゆる記者が横一列からのスタートとなる。
それは非常にありがたかった。

2016年11月5日、宮崎・南郷での秋季キャンプ初日。
球団広報から「監督はホテルからランニングで球場まで行くみたいだよ」と教えてもらった番記者一同は、球団の宿舎の前でストレッチをしていた。

午前8時。辻監督がロビーに現れた。
みんなで「ご一緒させてください」と頭を下げる。「ホントに?」といぶかしがりながらも、監督は先頭に立って走り出した。

シューズ


球場まで6キロの道のり。
澄み切った朝の空気。田んぼの向こうに見える山が美しい。

そんな中、記者はみな脂汗を流しながら走る。運動不足は明らか。次々と脱落していく。
辻監督はそれを横目に、軽やかな足取りで走っていく。とても58歳とは思えなかった。

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僕は報道陣の中では最年長だった。だが幸い、ゴルフ担当時代に1日2万歩ペースで歩き回って取材していた「おつり」が残っていた。
球場の手前には、長い上り坂がある。そこで少し離されたが、5メートルほどの差でゴールにたどり着いた。

「お、結局ついてこれたのはニッカンだけか」

辻監督はそういって、こちらを振り返った。
監督室まで100メートルほど、2人きりで並んで歩くことになった。直前に担当していたサッカーの取材現場では、あまりなかった状況。「何か爪痕を」とあせった。

「監督、走っている最中にイヤホンされてましたけど、何を聞かれていたんですか?」
「ん?聖子ちゃんからの絢香」
「だいぶ幅広いですね」
「まあね」
「今も辻トジ(※)のグラブって使われるんですか?」
「いや、普通のモデルよ」

まったくと言っていいほど、会話が弾まない。
「じゃ、よろしく」と言って、監督は監督室に消えていった。

※辻トジ…守備の名手として知られた辻内野手が、契約していた久保田スラッガーに特注していたグラブの形。やがて他の選手もその形を使うようになった


ワイングラス


「あれ、そんなだっけ?最初の日、ひとりだけついてきたのは、何となく覚えているけど」

辻監督はそう言って笑った。

初めてのランニングから5か月がたった2017年4月初旬。
日本ハムとの開幕カードを戦っていた札幌で、僕は監督と馬場コーチの夕食の席にまぜてもらっていた。

秋季キャンプ。まったく会話が弾まなかった朝のランニングの代償は大きかった。
すぐにひざ痛が出た。数日は無理をして参加したが、やがてまったく走れなくなった。

帰京後、知り合いの整体師に頼んで治療をした。痛みがとれたのを見計らって、ランニングを始めた。
2月の南郷キャンプ。僕は「調整」の効果で、監督にくっついて最後まで走り切ることができた。他の番記者もみな、一緒にゴールできるようになっていた。

シューズ


「みんなだいぶ走れるようになったもんな」

しそ焼酎をゆっくりとやりながら、監督が笑って振り返る。

最初は「聖子ちゃんや絢香」を聞きながら走っていた監督は、やがてイヤホンをしなくなった。
我々との会話を楽しみながら走ってくれるようになった。

キャンプ終盤。監督はチームの宿舎で、番記者を集めた懇親会を設けてくれた。
僕らはその席で「今年優勝したら、選手たちとは別に番記者ともビールかけをしてください」と申し入れてみた。

「おお!いいね!オレの家でやるか?」
無茶ぶりにもかかわらず、監督はそう言ってくださっていた。

刺身の盛り合わせを注文しながら、キャンプ当時を振り返って監督がつぶやく。

「ホントにビールかけ、やれるといいよね」

ワイングラス


実はこの時、僕はすでに日刊スポーツ新聞社に退職届を提出していた。
番記者ではなくなる自分は、ビールかけには参加できない。かすかな痛みを胸に覚えた。だがそれを監督は知る由もない。続けて語る。

「そのためには、何を言われようとオレが我慢できるか、なんだろうね」

辻監督はパンチ力と走力、守備力を兼ね備えた外野手として、田代将太郎選手、木村文紀選手をスタメンに抜擢していた。
ただ、この人選には早くも批判が寄せられてもいた。

「うちの奥さんなんか、かなりまいっちゃっててさ…あんまりネットのコメントを見るなと言っているんだけど」

苦笑いしながらため息をつき、少しだけ肩を落とす。

「でも、本当にチームを変えていくためには、我慢はぜったい必要なんですよ。外崎なんかもパンチ力すごいから、いずれ継続して使いたいですし」

言葉が熱を帯びだす。身振り手振りも加わる。
そうなると監督は、お酒の席でも「丁寧語」になる。

「山川なんかも、周りがとやかく言わずに結果を待てばいいんです。あの手元をループさせる打ち方とか天性ですよ。守備もミットさばきが柔らかくて悪くないと思う」

焼酎のグラスは中身が減らず、表面に汗ばかりかいている。思い出したようにそれを手に取り、語気を強めて言う。

「監督が腹をくくってやる。それしかないんでしょうね」


ボール②


その直後。辻監督は外崎選手に、外野手の練習を始めさせた。
内野ならどこでも守れる器用さはあったが、外野は高校や大学でも経験していなかった。

走力を生かし、バイプレーヤーとしての起用の幅を広げるため。みなそう見ていた。
だが監督の本意は、そこだけではなかった。彼のパンチ力を生かすために、打席数を増やしたかったのだ。

そうやって、外崎選手は秘めていた才能を開花させた。
2019年にはシーズン26本ものホームランを放つスラッガーになった。

山川選手は、2018年から2年連続の本塁打王に。
そうして育った"辻チルドレン"の力で、西武は2018、19年とリーグ連覇を果たした。

スマホ


そんなチームが、今季は苦しい戦いを強いられている。
8月11日時点で、パ・リーグ5位と低迷。辻監督は就任以来、最大の苦境に陥った。

ベンチで指揮を執る監督の姿を見て、思い出すことがある。

コロナ禍の影響で、開幕がまだ遠かった5月9日のことだ。
NHK総合で、水泳の池江璃花子選手のドキュメンタリー番組が放送された。

白血病から懸命に復帰しようとする池江選手の苦悩、葛藤が、長期の密着で克明に描かれていた。
ようやく再びプールで泳げるようになったシーンなどは、見るもの全ての心を救い、勇気づけるものだったと思う。

その一連を記者として取材したのが、NHKの安留秀幸記者。
2017年、辻西武の船出を一緒に取材した仲間で、監督が特に信頼していた番記者だった。

番組を見終えて、僕は辻監督にLINEを送った。「俺も見てたよ」。すぐに反応があった。
ちょうど数日後に、2017年の番記者仲間でzoom飲み会をすることになっていた。ダメ元で提案してみた。

「安留さんも来るんで、サプライズで合流いただいて、お褒めの言葉をかけてやってもらえませんか?」

「いいけど、やり方がわからないよ。教えてくれる?」

監督はわざわざ手持ちのスマホにzoomアプリをインストールしてくれた。
飲み会前日には僕との間でリハーサルまで行い、サプライズ合流に万全を期してくださった。

当日。何人かの記者に急な仕事が入って、合流が遅れた。
LINEで監督にその状況を伝えると「いいよ、待っとくから。気にせずで」と返答が来た。

ようやく全員がそろった。乾杯をして、しばらく近況報告をしあったところで、LINEで合図を出す。
急に画面に監督があらわれた。参加者はみな一様に絶句した。zoomアプリがフリーズしたかのようだった。

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「ホント素晴らしい仕事だと思った。グッときた。励まされたよ」

辻監督からそう言われ、安留記者は恐縮しきりだった。
その様子を見ながら、僕たち番記者も辻チルドレンだったな、となつかしく思った。

監督はいつも「みんな仕事だもんな」と言って、取材対応を面倒がらない方だった。
多少芯を外した質問をしてしまっても「それちょっとどうかな」と笑って応じる。そして話の軌道修正をして「使えるコメント」を返してくれる。

そのシーズン、野球取材の経験が浅い番記者は、僕だけではなかった。
それでもみんな、それぞれの社内で「うちの担当は監督といい関係にある」と目されていたのではないか。

監督に我慢していただいて、手を差し伸べられて、僕らはみんな成功体験をさせてもらった。
それを糧に、西武の取材現場を離れても、みんな活躍をしている。安留記者がいい例だ。

僕もいろんな話を聞かせてもらった。いい記事も書けた。
まったく違う世界に身を投じた今も、その成功体験に支えられている。


グリーン


監督の我慢強さに救われたのは、取材現場だけではなかった。
2017年の春季キャンプのオフ。監督は番記者のゴルフに付き合ってくださった。

「監督とラウンドできるらしい」と聞いて、あわててゴルフを始めた記者もいた。
当日、何人かが200打近くをたたいた。普通の人なら「何でこんなやつらまで誘ったんだ」と怒り出してもおかしくない。

だが、監督はどこまでも我慢強かった。面倒がらず、近くで初心者のプレーを見守った。
空振り続きの記者にも「よーし!いいぞ!うまくなってる!もう少しで当たるぞ」と声を掛け続ける。

すっかりその気になったのか、その記者は突然ベタピンのスーパーショットを放ち、周囲を驚かせた。

「ああ、そんなこともあったね」。zoomの枠の中で、監督は懐かしそうに笑っていた。

スマホ


今年は西武にとって難しいシーズンになる。
元・番記者の間でも、そういう見方はあった。

限られた期間で試合をこなすため、とにかく連戦が続く。
単純に先発の枚数が問われる形になり、手薄な投手陣をなんとかやりくりしてきた西武は、分が悪くなるのではないか。そう語り合っていた。

シーズンが短くなることもマイナスのように思えた。
毎年のようにFAで選手が抜ける穴を、辻監督は新戦力を我慢して起用し続けることで埋めてきた。だが、今年はそれを待っている間に、シーズンが終わってしまう。

zoomの会が盛り上がってきたあたりで、誰かが監督にその懸念を伝えた。
「そうだね。間違いなく厳しくなる」。率直な言葉が返ってきた。

「でも結局、野球ってそういうものじゃないですかね?自分たちを取り巻く環境があって、相手チームがいて、その中でベストを尽くすしかないんです」

真剣に語りだす。
やはり言葉は丁寧語に切り替わる。

「今年はコロナで極端な形だけど、今の状況に合わせてやる、っていう基本的なところはきっと一緒なんですよ。FAで選手が抜けるのも、昨日今日に始まったわけではないし」

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あの日の言葉通りだ、と思う。

難しい状況の中でも、辻監督は淡々と自分のベストを尽くされているように見える。

高卒4年目の鈴木将平選手、野手転向2年目の川越誠司選手、新外国人選手のスパンジェンバーグ選手ら新戦力に機会を与え、開花するのを辛抱強く待っている。
高橋光成投手、松本航投手、今井達也投手ら、ローテの柱になることが期待される若い投手陣に対しても同様だ。

覚悟の上とは言え、批判はされる。結果に対する批判を受け入れるべき立場でもある。そしてそれ以前に、成績に対して責任を感じている。
それでもチームを率いる身として、動じたところを努めて見せない。その姿に、励まされるところは大きい。

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僕は西武担当を最後に日刊スポーツ新聞社を退社し、転職をした。
在職3年。その会社が今年、他社と「経営統合」することになった。

どうなるかはまったく聞かされていないが、個人的には経験のないことだ。自分の仕事がどう変わっていくか。正直、不安はある。

そんな自分の目には、監督の姿はまぶしくうつる。
コロナ禍のシーズンという未知の戦いの中でも動じない。いつものように我慢をして、チームの地力が高まってくるのを信じて待っている。

自分も未知の状況でも頑張らねば。何があっても我慢をせねば。
強くそう思う。

そしておそらく、2017年の番記者仲間も感じるところは一緒なのではないか、とも思っている。

水泳担当として東京五輪取材班に組み込まれた安留記者しかり。他のメンバーも、他の新聞社に移ったり、赴任先の東京から福岡にある本社勤務に戻ったりと、身を置く状況が大きく変わっている。

僕と同じように、我慢を重ねる辻監督の姿に刺激を受け、自分を鼓舞しているのではないだろうか。

◇   ◇   ◇


個人的には「自分も監督にならって」と考えるようにもなった。

自分なりに「若い人を後押しするようなライフワークを持てないか」と思っている。
例えば、何かものを書くことで表現をしたいと志している人に、自分が持っているノウハウをお伝えするような…。

ご本人がどう思われているかは分からない。
それでも僕らは「辻チルドレン」と自認する。




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