40歳で初の転職。ずっと「番記者」だった僕がネット業界で感じていること
noteをはじめてから、かなり時間がたってしまったのですが…
自己紹介をさせていただこうと思います。
最初はカメラマンとして
僕は今、ニュースプラットフォームで働いています。
ですがもともとは、スポーツ新聞の「日刊スポーツ」で15年間、取材の仕事をしていました。
入社は2002年。最初は「写真部」、つまりカメラマンの部署に配属されました。写真の勉強をしてきたわけでもないので、本当に驚きました。
新聞の紙面に必要な写真は、アートではない。
記者の感覚で事象を切り取れるカメラマンが必要。
当時の日刊スポーツは、そういう理由で記者志望の新人を写真部に配属していました。
会社が僕をどう評価していたかは分からないのですが、少なくとも個人的には、最初に写真部に配属されたことはとても良かったと思っています。
2年目は大相撲、3年目は野球と担当にはつけられたのですが、基本的にはどんな現場にも派遣されるのがカメラマンです。
巨人の試合から公営ギャンブル、PRのために来社するグラビアアイドルまで、紙面に掲載されうるあらゆるジャンルの事象、人物を撮影しました。
これがすごくためになった。
後に僕は番記者になって、特定の競技にベタ付きをすることになります。
その際、カメラマン時代にあらゆる現場を見せてもらった経験が生きて「外から見たら…」という意識を常に持つことができました。
これが取材や執筆の幅を広げてくれたように思います。
そして、最初から何らかの競技の番記者をやっていたら、こういう視点を持つのはおそらく難しかっただろうなと。
もうひとつ、その後に生きたことがありました。
とても近い距離で取材対象を見られる、という「番記者としての成功」を疑似体験できたことです。
僕はどちらかというと「自分なんかが…」と可能性に自らキャップをはめてしまうようなタイプの人間でした。
阿部慎之助さんとのご縁がなかったら、のちに記者としてアスリートと接する時に、きっともっと腰が引けてしまっていただろうなと思います。
オシムさんとの出会い
2004年11月、僕は写真部から「スポーツ部」に異動しました。
野球以外のスポーツ全般をカバーする部署です。
その中に「サッカー取材班」がありました。
そこは社内でも一番、人間関係が難しいとウワサの取材班でした。
実際どうだったか…は置いておいて(笑い)
僕はとりあえず、ジェフ千葉とザスパ草津の担当になりました。
当時は大阪や福岡、札幌のグループ会社も含めると、日刊スポーツのサッカー取材班は全国合わせて30人ほどいました。
おそらく、これだけの数の社員をサッカー取材に配した会社は、日本のメディアの歴史を紐解いても例がないんじゃないかと…。少なくとも、今ではなかなか考えられません。
そのような状況のおかげで僕は、まだタイトルをとったこともないジェフを、付きっ切りで取材することができました。
これはとても幸運なことでした。当時のジェフには、あのオシムさんがいらっしゃったので。
加えて担当1年目でいきなり、ジェフのナビスコ杯優勝に立ち会うこともできました。1面を任されて書いた記事には、書きたいことの1割も詰め込めなくて悔いばかりが残りましたが、それも含めて本当にいい経験でした。
このご縁で、後にこんな記事を書かせていただくことにもなります。
初めて味わった「熾烈な競争」
2006年からは横浜F・マリノスの担当になりました。
岡田武史監督のもと、2003、2004年とリーグ連覇を果たしていた強豪クラブ。この年のドイツワールドカップの日本代表の有力候補にも、久保竜彦選手、中澤佑二選手ら複数の選手が挙がっていました。
だから各新聞社とも、担当は経験豊富な記者ばかりでした。
ジェフ千葉とはまったく違う雰囲気の現場です。
朝、他紙の紙面を開けば、自分がまったく知らなかった情報が記事になっている。そのたびに、会社の上司や先輩から「なぜうちは書けなかったんだ」と問い詰められ「何か特ダネでやりかえせ」と迫られる。
ムリに書いた記事で選手やクラブ関係者との関係を悪化させたり、他紙の記者との人間関係に悩んだり…。
最後まで手応えらしいものを得られないままに、3年間の番記者生活は終わりました。
何となく転職活動にも手をつけました。
ただ、あるテレビ局さんの最終面接まで進みながら、日本代表の欧州遠征取材と重なったことで断念してしまったり…
覚悟も考えも足らず、何もかもが中途半端でした。
そんな中でも、のちにつながるいくつかのご縁に恵まれていたのは、本当にありがたいことです。
LINE NEWSに移ったのちの2018年、当時マリノスのエースだった久保竜彦さんと再会し、ジーコさんとの12年ぶりの対面に密着させていただくことになります。
「世界のナカムラ」を担当して
2007年からは、当時グラスゴー・セルティックでプレーしていた中村俊輔選手も担当することになりました。
そのころ、スポーツ報知には石倉勇記者、豊福晋通信員という、俊輔選手が絶大な信頼を寄せるコンビがいらっしゃいました。
マリノスの取材現場と同様に、僕は「その他大勢の記者という立場から、いかに取材対象の信頼を得ていくか」を問われることになりました。
俊輔選手は甘くはありませんでした。
気分で何かネタをくれるようなことはなく、記者の取材のプロセスをよくみて、対応を考えるタイプの取材対象だったと思います。
電話番号を聞き出す際にも「あー、モテてこなかったやつの聞き方だね。やり直し」と言って、再チャレンジをうながされたり…
とにかくあらゆる面で勉強をさせてもらいました。そのあたりはまたいつか、noteでも書きたいと思います。
それからだいぶたちましたが、当時の思い出のひとつをつづったこちらの記事で、noteさんから賞をちょうだいすることになりました。
俊輔選手には本当に頭が上がりません。
「書かないことで仲良く」からの脱却
2011年シーズンから、僕はゴルフ担当になりました。
会社の意図としてはどうも、ポジティブな人事ではなかったようです。
ただ、ここからの4年間で、僕はようやく「記者の原点」を知ることができました。
それは「書いたことで信頼を得る」ということです。
サッカー担当だったそれまでは「知っているけど書かない」こそが選手から信頼を得る一番の道だと思っていました。「秘密は守ります」という。
ただ、ゴルフはサッカーほどに紙面が割かれるわけではありません。
つまり、書かれないことが特別ではない。書かないことをありがたがってもらえるような現場ではなかったのです。
そんな時に「ゴルフダイジェストオンライン(GDO)」の桂川洋一記者から、こういう指摘を受けました。
「塩畑さんはすごく熱心に取材されていますけど、書いてないことばかりでもったいないと思うんですよね。コラムを書いたらどうですか?」
まだ"紙面脳"だった僕は「それは分かるけど、スペースの制約がないネット媒体のGDOさんと紙面は違うから」といったん受け流してしまっていました。
ただ、しばらくして「ネットに書けばいいのか」と考え直しました。
当時のゴルフ担当デスクにお願いをしたところ、ネットコラムのコーナーをつくってくれました。
文字数の制約がないだけではありません。
紙面と違って、公開当日だけでなく翌日以降も読まれる。SNSでもクチコミでも拡散され、広く読まれていく。
たくさんの選手、関係者から「あれ読んだよ」と言われるようになり、僕がどんな記者なのか、というのを知ってもらうきっかけになりました。
目指す仕事のイメージさえ分かってもらえれば、記者も「得体のしれない存在」ではなくなる。取材を受け入れてくれる選手は一気に増えた。
これを機に僕は、取材したことはできる限りネットに記事として書き残していく、というやり方をとるようになります。
再びサッカー担当に
2015年にはサッカー担当に復帰しました。
担当は浦和レッズと日本代表。
最初の大仕事は、日本代表の新監督ハリルホジッチさんを自宅に訪ねるものでした。
広いフランスの中で、何の手がかりもないところからツテを探して、ご本人に話してもらうところまで約3週間…
当時は本当につらかったのですが、今となってはすごくいい思い出です。
そうやって日本代表の取材もしつつも、日本のスポーツ紙の記者としては、ベースはやはりJリーグの取材になります。
浦和レッズの選手、関係者の皆さんには、本当にいい取材をさせていただきました。
退社を決意。なのに"念願の人事"が…
レッズの取材現場は、本当に楽しかったです。
ただ、それとはまったく別な問題として「これからの人生をどう生きていくのか」というものがありました。
「39歳のうちだったら内定も出せそう」というお話もいただいたので、新しい世界に飛び込んでみたいと思うようになっていました。
面接の準備も進めていた2016年の冬、僕は異動の辞令を受けました。
野球取材班への配属です。
「いつかは野球を取材したい」というのは、入社以来ずっと考えていたことではありました。
取材してみると、これが本当に楽しくて…。
選手の皆さんも、辻監督や馬場コーチ、秋元コーチといった首脳陣のみなさんも、本当にとてもよくしてくれました。
何より、ファンの方が快く受け入れてくださって…記事に対する皆さんの反応は、本当に励みになりました。
だから進路については、ものすごく悩みました。
今でも「あのままライオンズ担当を続けていたら」と思うことはあります。
辻監督に「あの後取材してたら、本当に楽しかったと思うけどなあ」と冗談めかして言われたりもします。
ともあれ、僕は2017年の5月いっぱいで、15年近く務めた日刊スポーツを退社しました。
40歳、初めての転職
2017年6月1日、僕はLINE株式会社に入社しました。
配属されたのは「LINE NEWS」の編集チーム。
提携媒体さんが配信されているニュースの中から、LINEアプリユーザーに読んでもらいたいものを選んで掲載、という仕事でした。
僕は「遅番」のチームに入りました。午後に出社し、終電前までの業務。
「記事は書けないものと思ってほしい」と言われての入社だったので、ピックアップのプロになるつもりで没頭していました。
これがもう、大変で…
ゴルフ取材では毎日10時間歩き続けたり、サッカーの移籍交渉取材では一週間ぶっ続けで成田空港で張り込んだりと、それなりに負荷の高い仕事はやってきたつもりではいました。
でも、ピックアップの仕事を始めた僕は、3連勤目でヘロヘロになっていました。
・よく知らなかったジャンルまで幅広くアンテナを張る必要がある
・予想しえない流れこそニュースバリューなので臨機応変に対処
ある程度、専門領域に絞って仕事をする「番記者の仕事」とは対極の業務。
能動よりも受動、というのもあると思います。まったく使っていなかった筋肉を駆使する疲労感、のようなものはあったかなと。
同じオフィスにいながら、原則としてすべてのやりとりをチャットで完結させる、というのも驚きでした。
取材記事の価値を知ってもらいたい
ピックアップ業務は本当に勉強になりました。
一番痛感させられたのは「いい記事だから読まれる、ということはない」というところです。
それは数字にはっきり出ます。エンタメ系の記事の1PVと、取材に基づき、学びもある記事の1PVを同列に並べていたつもりはないのですが…。それにしても「読んでもらいたい記事」の読まれなさは予想以上でした。
新聞社では「いい記事を書くことが部数増の王道だ」と言われていました。そこにはかなり疑問を覚えながら仕事をしていたつもりでしたが、LINEでの業務を通して「疑問を覚える」程度では生ぬるいのと思い知らされました。
・「いい記事だ」と確信を持って書いたからこそ、かえって読者との距離が生まれてしまい、読まれずに終わることもある。
極端に言えば、そういうところがあると思います。
(ここはこれまで書いてきたnoteの裏テーマでもありますし、あらためて何らかの形で書くつもりでもあります)
取材自体には間違いなく価値があります。
ただ、それがちゃんと伝わっていないことも多い。その認識から再スタートすれば「取材記事の価値」をもっと高めることができるのではないか。
そう思って「きちんと取材して深掘りしつつも、伝えるための最適化も全面的に施した記事」を考えてみることに。
まずは自分で取材し、執筆してみました。
1年半くらいかけて50本ほど書いて、ある程度の「傾向と対策」みたいなものが見えてきたところで、提携媒体の皆さんに同じようなフォーマットの書き下ろし記事を配信いただく形にシフト。
この「コラボ企画」が、今の僕のメインの仕事です。
「ハイブリッド」だからできることを
2020年5月からは、noteをはじめました。
コラボ企画とは違う角度から「取材することの価値」を知ってもらう。
noteで書いている記事には、そんなテーマもあります。
「元・記者」として、これから個人的にやりたいことを実現する場としても、noteはとても大事だと思っています。記者志望の方に、自分なりの取材や執筆のやり方をお伝えする、とか…。
新聞記者としての経験を生かしつつ、ニュースプラットフォーム側の視点も加えて、自分だからこそできることを続けていきたい。
日々noteをつづりながら、そんなことを考えています。