結局のところ、『主体的・対話的で深い学び』ってなんだ?
年が明けた。昨年は自分にしては文章を書くことが多かった。このnoteや授業づくりネットワークの授業記録、研究助成の論文、そして誰に見せることもない自分の授業記録や読書ノート、つまらない文章もたくさん書いた。
少し前は言葉になんてあんまり興味がなかったのだが、今更になって言葉で伝えるのってすごくおもしろくて曖昧で、複雑で、そして残酷だと思うようになった。誰もが頭の中では言葉で考えているわけだから、見たことも起きたことも現実はすべて頭の中で言葉で描写される。その言葉は、人それぞれおんなじようでいて結構違う。たとえ同じ言語であっても、その人がこれまで生きてきた経験や思考によって言葉はずいぶんちがう。だから、目で見た事実をどれだけ言葉で書いても正確には伝わらないし、私が描写した言葉が本当に正確かどうかもわからない。たとえ同じものを見たとしても、多分見えているものは同じではない。穿った見方をすれば、言葉は大胆に、そして残酷に現実らしきものを切り取ってしまう。
タイトルの話をしたい。私たちは、『主体的・対話的で深い学び』という言葉の曖昧さに振り回されている。これからは不確実性を孕んだ時代に突入する。そのためには生きる力が必要不可欠であって、その力はいくつかの資質・能力によって整理される。それを学ぶために必要なのが『主体的・対話的で深い学び』なのだ。こんな感じで、教育政策から与えられた言葉を使えば、何となく説明ができるようになっている。教育政策の言葉を使うと、明確な理路がそこにあるかのように思えてくる。なるほど、だから『主体的・対話的で深い学び』なのか、と思わされる。しかし、よく考えてみると『主体的』『対話的』『深い学び』という言葉はどれを取っても、一体何を指しているのか、実のところ誰もよく分かっていない。
『主体的・対話的で深い学び』という言葉を作った人たち(というか誰が作ったのかはとても曖昧になっているのも気になるのだけど)は、その言葉の意味と重要性を方方に説いてまわることを生業とする。そして結びでは必ず「その具体は、授業を実践する教師の皆さんが作り上げるものなのですよ」と言う。不確実性を伴う時代の学びを作るために、『主体的・対話的で深い学び』という学びのゴールに向かって頑張ってください!と鼓舞される。なんだか、そう言われると誰も否定できなくなってしまう。そりゃあ、『主体的・対話的で深い学び』は大事だね。うん大事に決まっている。じゃあ皆でそんな授業を目指そうじゃありませんか。ということになっている。
昨年末、私が勝手に師匠だと思い込んでいる人と話をしたら、教育政策が言っていることは二枚舌だ。表向きには『主体的・対話的で深い学び』と耳障りの良い言葉で教育の理想を語っておきながら、政策的には理想と真逆のことをやっている。本当は変えようなんて思ってない。と師匠は言った。
私はその話を聞きながら、なるほどそうかもしれない、と思うと同時に、私もその二枚舌に加担している一人かもしれない、と思った。私自身も『主体的・対話的で深い学び』という言葉に踊らされながら、その言葉の曖昧さを良いことに、自分の頭で何も考えないでいるのかもしれない。上から降ってくる言葉の曖昧さに迎合して、『主体的・対話的で深い学び』って何なんだ?と言いながら思考停止しているのは私ではないか、ということだ。
中教審が次の学習指導要領の改訂に向けて動き出している。きっと、有識者の人たちによって壮大なストーリーが描かれる。名を刻まれる人たちが誰も傷つかないように、あらゆる主義主張がパッチワークされた、壮大な仮説とも呼べない仮説が出来上がる。次に『来る』言葉が生み出される。そして再び私たちは、次に『来る』言葉はこれだ!と飛びついて、流行に乗り遅れまいと時間とお金と実践を消費する。この繰り返しだ。
というか実は、次に『来る』言葉なんて待たなくても、教室の子どもたちをよく見れば、何をやるべきか分かっているのかもしれない。ただそれを自分で言葉にすることなしに、どこからかやって『来る』言葉を待って、それを子どもに当てはめようとしているだけに過ぎない。
今年は教育政策の言葉ではなく、自分の言葉を使って物事を考えようと思う。そして、もっと自分の言葉で、自分の目の前で起きていることを書くことで、学校や授業について考えていきたい。
こうしてnoteに書いているのも、なるべく独りよがりにならないように誰かに届けるつもりで書いてはいるが、これがなかなか難しい。やっぱり言葉はおもしろくて曖昧で、複雑で、そして残酷だ。