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子どもにも教員にも求め続けられる『資質・能力』

『審議のまとめ』を読んでみた

 文科省がまとめた「「令和の日本型学校教育」を担う質の高い教師の確保のための環境整備に関する総合的な方策について(審議のまとめ)」について、パブリックコメントを募集している。

令和の日本型学校教育」を担う質の高い教師の確保のための環境整備に関する総合的な方策について(審議のまとめ)https://www.mext.go.jp/content/20240524-mxt_zaimu-000035904_1.pdf

 上記の文書をスライドでまとめたものを、『カタリスト for edu』というサイトで見ることができる。霞ヶ関文学やポンチ絵よりも分かりやすいのでオススメ。カタリスト for edu編集長のたかのまさこさんによるもの。

 私もいち教員としてパブコメするぞ!と意気込んで文科省のページをクリックすると、文書はPDFで59ページもある。しかも、これ誰に宛てて書いてるんだろう?という文体。そしてお決まりの箇条書き調文科省文学。
 いやいやそれでもやっぱり読まなきゃ!と思い直してざっと目を通した。

子どもに向けていた言葉が教師に向けられる

 まとめに書かれた具体的な提案についてはカタリストのまとめを見ればよいとして、私がどうしても気になったのは、提案よりも文書の序盤、『「令和の日本型学校教育」を担う教師及び教職員集団の姿』についての部分だ。

このように、教師は、学びに関する高度専門職であり、教職生涯を通じて探究心を持って主体的に学び続けること、教科や教職に関する高度な専門的知識や新たな学びを展開できる実践的指導力、子供の学びの過程を見取り質の高い学習評価を通じて指導の改善につなげていく力量等に加え、教職に対する使命感や責任感、子供に対する教育的愛情、豊かな人間性や社会性等が求められる。

「令和の日本型学校教育」を担う質の高い教師の確保のための環境整備に関する総合的な方策について(審議のまとめ)より

 読みながら、「え?これって学習指導要領なの?」と錯覚するような言葉づかいが並ぶ。「生涯を通じて探究心を持って主体的に学び続ける」とか、「豊かな人間性や社会性」とか、これまで子どもの学びや成長に向けられて使われてきた言葉が、教師の学びや成長の文脈においても同様に向けられている。

新たな学びの実現に向けて、高度専門職である教師が、働き方改革により創出した時間も活用しつつ、教職生涯を通じて新しい知識・技能等を学び続け資質能力の向上を図り、子供一人一人の学びを最大限に引き出す教師としての役割を果たすことが重要である。あわせて、多様な人材を教育界内外から確保することにより、質の高い教職員集団を実現していくことは、我が国の学校教育の質を高め、子供たちに対してより良い教育を行うために重要なことである。

「令和の日本型学校教育」を担う質の高い教師の確保のための環境整備に関する総合的な方策について(審議のまとめ)より

 「生涯を通じて新しい知識・技能等を学び続け資質能力の向上を図り」とある。本当に自然に出てきた「資質能力」という言葉。教員の資質能力って何だよっ、とツッコミを入れたくなるが、文書の中にもしっかりと明記されている。

教師の在り方については、これまでも中央教育審議会で議論が重ねられてきた。 例えば、「教職生活の全体を通じた教員の資質能力の総合的な向上方策について (答申)」(平成 24(2012)年8月 28 日中央教育審議会)においては、教師に求められる力として大きく3点で整理された。
①教職に対する責任感、探究力、教職生活全体を通じて自主的に学び続ける力 (使命感や責任感、教育的愛情)
②専門職としての高度な知識・技能(教科や教職に関する高度な専門的知識、新たな学びを展開できる実践的指導力、教科指導・生徒指導・学級経営等を的確 に実践できる力)
③総合的な人間力(豊かな人間性や社会性、コミュニケーション力、同僚とチー ムで対応する力、地域や社会の多様な組織等と連携・協働できる力)

「令和の日本型学校教育」を担う質の高い教師の確保のための環境整備に関する総合的な方策について(審議のまとめ)より

 これを整理する場には、現役の教員はいなかったのだろうか?私はこんな資質能力は持っていない。というか、こんな人いない(笑)しかしこの審議は、資質能力を全て完璧に兼ね備えた、スーパーマッチョな教員を確保するために、教員の処遇改善を行わなければならない!という前提で議論が行われている。そんな前提間違っている!みんな違ってみんないいのだ!とパブコメに書いてやろうか?と思いつくが、すぐに問題が発生する。
 例えば、「じゃあ、教員にはここに書かれた資質能力はどれも必要ないのかっ?」と誰かから問われたとしよう。そう聞かれると私は、「はい…必要といえば必要ですね…。生意気言ってごめんなさい。」とあっさり引き下がるしかない。そりゃあ、こんな資質能力があった方がいいに決まっている。だからこそ否定できない。じゃあ、教員はみんなここを目指せるように、不断の努力が必要だよね?という共通理解に辿り着く。だれも文句が言えないくらいに、その理想の姿が完璧すぎるのだ。
 こういった議論に潜む構造を、哲学者の國分功一郎さんは「本来性」と呼んでいる。私たちはすぐに、「そもそも本来は〜」と言いながら、ありもしない理想を語り、その理想に今の自分自身を重ねることによって、足りない私を想起してしまう。


資質能力の巨大なブーメラン

 だれも文句が言えないくらいに、その理想の姿が完璧すぎる。理想の姿が一人歩きすることによって、私たち教員の仕事が規定される。全ての教員が持つべきであるという議論によって資質能力が規定され、教員たちはずっと足りない資質能力を埋める努力を生涯し続けなければならないという、誰かに規定された学びを押し付けられる。楽をするための働き方改革なんてもっての外だ。
 実は、私たち教師よりひと足先に、終わりのない本来性の罠に苛まれる人たちがいる。それは紛れもなく子どもたちだ。
 子どもたちが身につけるべき資質能力を規定して、存在しえないマッチョな人間像から常に足りない部分を補うように教育される必要がある。目に見えない、測ることなどできない資質能力が、ロールプレイングゲームのキャラクターに付いたパラメーターの様にいつの間にか可視化され、序列の道具に使われる。資質能力がある、もしくはない、という表現が生まれる。
 そうやって子どもたちに向かって投げた資質能力のブーメランが、いま大きなしっぺ返しとして、教員に向かって飛んできている。そして、自分たちに向けられて初めて、その言葉の鋭さと巧妙さに言葉を失ってしまう。
 審議のまとめを読みながら、自分みたいな足りない教師が文句など言えないなあ、と思ってしまう。妥協案的ないくつかの提案を読みながら、もしかしてこれは教員である私たちを黙らせるために書かれたものなのではないか?と勘繰ってしまう私もいる。

それでも、パブリックコメントを。

 と、ここまで私のずいぶん穿った意見を書いてきたが、黙ってないでちゃんと言うべきことは言わなきゃならない。パブリックコメントは以下のサイトから6月28日まで受け付けているとのことなので、ぜひコメントしましょう。


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