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「〜と言われている」「〜とされている」・・・って、誰に?

 いつからか、「〜と言われている」という言葉が気になる。
 研究授業のあとに指導講評をする先生が、スライドにコピペした文科省や中教審がまとめたポンチ絵を、全く読ませる気がないだろうというポイント数の文字で示しながら、「〜と言われているように」と言う。これから自分が展開する話の論拠として、自分よりも公的な、社会的に認められているような機関が出している文章を示す。私だけが突然こう言っているんじゃないんだ、という証拠を示したい。

 正直私も使うことがある。教務主任をしていて、先生たちにやってもらいたい事務的なことがある。ただやってくれ、というだけでは心許ないし角が立つ。そんなときは、事務作業を求めてきた委員会から下りてきた何らかの資料を示して、「〜と言われていますので、みなさんお願いします」という具合にお願いする。私がお願いしているわけではないですよ、私よりも目上の偉い人が求めているんですからね。逆らえないんですよ。と伝えたい。なるほど仕方ない、やってやるかと思わせたいのだ。

 あと、似た様な言葉に「〜とされている」もある。勉強会やセミナーに参加すると、必ずこの言葉が冒頭に出てくる。しかもそれは、自分以外の人の見解や解釈を先に持ってきて、自分の理論を補強するために用いられる場合が多い。当然引用元なども示されない。中には、「〜と聞いたことがある」くらいのレベルのものを、「〜されている」と紹介している場合もある。
「〜とされています。・・・でも!私はそうは思わないんですッ!!」
という面白い展開の話は全く聞いたことがない。「〜と言われている」「〜とされている」という言葉の前には、必ず自分が肯定的に解釈した誰かの話や論理を据える。「〜とされているので」、私のこれから言うことは理にかなっていると主張する。実際聞いていると、なんだかそれは正しいんだなという気持ちになってくるから不思議だ。

 というか、前からこんなに「〜と言われている」「〜とされている」って言葉が使われていただろうか?

 これは言われている訳でも何でもなく、何の根拠も無い単なる私見なのだが、ネット検索による手軽な引用文化が大きいのではないだろうか。SNSでは、自分が支持しそうな実践や考え方しかタイムラインに流れてこない。おっいいねと思えば、ボタンひとつでそれを引用したりコピペしたり、スライドに貼り付けることが可能だ。そのスライドを、自分が言いたいことの前に持ってくれば、何となく体のよいプレゼン資料が完成する。
 そのスライドとスライドのつなぎとして、「〜と言われている」「〜とされている」という言葉が使われるのではないか。文献を読まずしても示さずとも、あるいは自分とは真逆の意見を引っ張り出す必要もない。聞いている方もそれを求めていないのというのも問題だが。

 だから私は、発表者が「〜と言われている」「〜とされている」という言葉を使ったら、「…って誰にっ!?」と心の中でツッコミの様に問い返すことにしている。すると、話の筋道をよくよく考えてみると、大抵の場合、「〜と言われている」「〜とされている」正体は、それを「と言いたい」「としたい」発表者であることに気づく。発表者はそれを「そう言いたいから言われている」し、「そうしたいからされている」と言っているのだ。

 私も職場では使わないようにしたい。だから、誰かに「〜と言われている」「〜とされている」と言いたくなったら、「…って誰にっ!?」と自分にツッコむ。でも、その事務作業を頼むだけの理由を、自分の中になかなか見出せないくらいブルシットな代物である、ということも一応付け加えておく。

 
 
 

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