佐藤大輔
各大学の対策をコンパクトに
大学受験アドバイザーの佐藤大輔です。 受験生に対して勉強法及び受験戦略の伝達、カウンセリング業務を生業としています。 noteで受験情報を発信していこうと思っています。 よろしくお願いします。
今回は田舎の生活についてお伝えしようと思います。 「東京の人は東京 23 区だけが東京だと思っているらしいわよ。」 これは私の母が 25 年くらい前に言っていた言葉です。 「東京の人は東京だけで世界が完結しているから。」 これは知人のお母さまが仰った言葉です。 都民の方は気分が悪くなってしまうかもしれないのですが、今日は、東京と地方の格差、また、東京内、地方内での格差に関してお伝えしたいと思います。 地理で言えば、南北問題、南南問題に少し似ていますかね。 私は上京して渋谷のス
高一で印象に残ったことを忘れていた。 授業参観はかなり印象的な出来事だった。 担任であるM先生の数学の授業だった。 スーツやドレスで着飾った保護者の方が教室の後ろに陣取っている。 そんな中、私の父が仕事で遅れて入ってきた。 (ちなみになぜ専業主婦の母ではないかというと、母は当時まだ一歳になるかどうかの末弟の子守をしていたのとそもそも智辯和歌山という管理教育校が嫌いだったからである。) 父はなんと作業着だった。 正直私は恥ずかしいと思ってしまった。 智辯和歌山の保護者の所得水
厳しい智辯和歌山生活も夏になった。 進研模試も受けたろうか。英語で99/100点を取り、科目別偏差値が80を超えたのを覚えている。 智辯和歌山では高校野球全校応援がある。 出席を取り、体育の授業扱いである。 夏の紀三井寺球場の県予選、夏の甲子園、春の甲子園は全校で応援する。 今は小学校のクラスもできたが、中等部高等部が応援する。 夏になり、野球応援が始まる。 智辯和歌山は、エース高塚、中谷、喜多、清水などの活躍もあり、96年センバツで準優勝していた。 期待値も高い。 夏の
(タイトルは迷ったが、やはり青春ということにしたい。 私は15歳から20歳までの青春を受験に投じたわけだが、それはそれで人生だと思う。中国でも科挙に身を投じて成功しなかった人は多数いたろうし、現代の科挙と言われた旧司法試験に合格できなかった法学部生も沢山いた。それに類する形で15歳から20歳までの青春を投じても東大文Iに合格できなかった。 だが、大学受験の良い点は資格試験ではないので、東大文Iに落ちても早稲田法には一浪で合格を貰えた。 早稲田法学部は早稲田では看板学部の一つで
智辯和歌山入試が終わり、一息ついていた。 合格後にY校長先生から校内放送で呼び出しがあった。 校長室に入ると、「S君、よくやってくれた。おめでとう。」と声をかけられ握手を求められた。 「智辯和歌山編入に3名、国際科に4名。計智辯和歌山に7名は有田地方ではB 中学に次ぐ数字だ。ありがとう」 ということだった。 「開成高校の数学では~」 という話をされた。 校長室に校内放送で呼び出され校長から握手を求められる。上位校に合格できたことの実感を得られた。 入試の翌週、マラソン大会
冬休み、私は能開の課題と格闘していた。 英作文も数学も課題がてんこ盛りであった。 一方で国語は大した課題もなく平常運転だったが、国語くらいが良いのだろうなと思う。国語は手を抜く生徒が多かったが、講義を聞いてちゃんと演習をすれば結果が出る。智辯和歌山入試でも早稲田法入試でも国語に助けられた形になったので国語は真面目にやって損はない、といいたい。 そして、冬休みが明けて入試シーズンになった。 智辯和歌山入試は一月の中旬だったと記憶している。 当時は一月第三週の土日だったろうか。
夏合宿が終わり、夏休みも明けて二学期になった。 クラスメイトのOさんから、「佐藤君、皆勤だったのに塾の合宿で休んだのは勿体ないね」と言われる。返答が難しかったが、「どうせ体調不良になったかもしれないから」と返した。 秋になると、生徒会の任期が切れた。 そして学級委員にもならなかった。 常に校内のリーダー的役割を果たしてきていたが、ついにそれが終わった。思い返せば、弟の入学式で祝辞を読んだ。弟としてはやりにくかったろうが、自分の人生を思い返してもなかなかそんな経験をした人はい
一学期が終わり夏休みに入った。 夏休みで一番の思い出は能開の夏合宿である。 合宿参加者は学力が高まると聞き申し込んだ。 能開の和歌山校には適塾21というクラスがある。 そのクラスの生徒は日本中から優秀な生徒が集まる大山合宿らしい。 箕島校は全員三重での合宿になった。 合宿は厳しかったのを覚えている。5日間だったが毎日12時間ほど勉強をした。一番覚えているイベントはサドンデス演習。 問題で満点が取れるまで部屋から出られない。満点を取った生徒はガラス張りの部屋で豪華料理を食べ
中3の春が終わる頃になると能開生活にも慣れてきた。 朝起き、学校へ行って授業を受け、部活をやって親の送迎で最寄り駅まで行き、そこから箕島駅で降り、能開箕島校に行く。授業を受け、帰宅して勉強。24時には寝る。 という生活だ。 智辯和歌山高校入試(編入という)は英数国の三教科入試である。英語200数学200国語100で英数は二日間入試があり、面接もある。 そういうわけで英数国の講義をみっちり受けていた。国語は週一で英数は週二だったか、少し回数は失念した。 英語と国語は伸びた。みん
父に懇願して私は能開(現WAOグループ)箕島校に入塾した。入塾前のテストでは英数ともに80点前後。入塾面談では、「この成績では智辯クラスには入れられません。まずは近附(和歌山県二番手校)クラスに入ってください」と言われたが、父は、「うちの子は智辯に行きたいから能開に入りたいと言っている。智辯クラスに入れないなら入塾しません」と強気に出て一番上の智辯クラスからのスタートになった。そこでは同じ学校のS君、Kさん、K君、F君(後に浪人時に下宿で同じになる)、Nさんなどがいた。割と私
いよいよ、三度目の東大入試だ。 会場は相変わらず900番講堂。 三回受けるとどれがどれだか区別が付かなくなっている。 印象に残ったのは前の席の女子受験生。 受験票の名前が見えた。なんと高二東大実戦模試で文系トップを取った地方私立進学校の女子だった。あの模試では自分は学年トップ100以内につけていた。彼女は模試成績を追う限り、文Iトップ100には入り続けていたようだ。自分は現役生に追い抜かされ、秋は文IB。なんとか転がり込めればと思う。 国語は印象にない。 やはり印象に残っ
センター試験に向けては地学をやったくらいだった。 地学は一浪でも生半可な知識しかなかった。当時のセンター地学はそれでもなんとかなったのだが、一応対策はした。 いよいよセンター試験当日。眠気が強い中、農工大に向かう。前日に下見に行き、迷うことはない。獣医学部があるのでキャンパスは広い。A先輩とM君は和歌山でセンター試験を受けるそうだ。緊張感が高まってくる。 率直に言って、あまり印象がない。 センター試験も受験は三回目になり、そこまでの緊張感がなくなってきたのだろうか。出来はよ
帰省から帰ると大学には通わず、バイト・麻雀・受験勉強に絞ることになった。このあたりから記憶があまりない。おそらく、バイト・麻雀・受験勉強という単調な日々が続き、記憶に残る出来事があまりなかったのだろう。 麻雀は一年生みんなでよく楽しんだ。K君というレスリング経験者の同期がいたが、「俺は染色家なんで」とよく言っていた。染め手が好きだったのである。一緒に仮面浪人をしていた早稲田のA先輩とはよく麻雀をした。可愛いがってもらったと思う。お父様が医師をされているイケメンであった。出身
東京に来て最初に驚いたのは人の多さだった。 たしかに大阪も多かったのだが、東京はさらに、という感じだ。 まず朝の満員電車がキツイ。特に山手線の新宿~高田馬場間と東西線の高田馬場~早稲田間がキツかった。まさにすし詰めというもので、バイトの学生の駅員が乗客を押し込んでいた。 また、人の多さで一番驚いたのは渋谷のスクランブル交差点である。(これがテレビで見かけたあの場所か)というインパクトは大きかった。特に休日の人の多さは驚くべきものがあり、大都会東京というものを実感した。 大学
そういえば、サークル回りで重要なサークルを忘れていた。 悪い意味で時代を彩ったサークル「スーパーフリー」の新歓に行ったのだった。チケット確保はマイルストーンで和田サンに電話。和田サンと直で対話したのは印象的だ。「スタッフってどういう選考をしているのですか?」と聞くと、「スタッフになりたいなら君の人柄次第だよ」と言われたのを覚えている。 新歓の場所は六本木のヴェルファーレだった。 甲南高校出身で北大経済後期蹴りの早稲田政経の友人と参加した。正面の舞台で和田サンとスタッフがパラパ