家の庭と向き合って見えてくるもの
庭に、写真のような植物が蔓延っていた。
最初は「花なぞ咲かせおって。愛いやつめ」と殿様気分で刈らずにおいたが、最近、友人の投稿でこやつが「ヨウシュヤマゴボウ」なるなかなかに強烈な毒草であることが発覚。
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000079871.html?fbclid=IwAR0UjT0J6S28j6qkiJzAtE5I7V-5CRG4-jTZMNFI_2uW__YPgS8oHsghqcY
3日かけて庭に生えていた輩を、ネパリで購入したナイフ片手にあらかた刈るor抜き尽くした。中には成長しすぎて根を抜けず、今回の労力にいかほどの効果があるかは分からぬが、実が弾け切らぬ状態で討伐したので、しばらくは姿を見せぬことを願いたい。
あとは、鳥が実を運ばぬことを願うのみだ。
「庭」という存在について、考えさせられる。
何を言ってるか分からぬと思う。庭は庭だ。
ただ、庭師を入れて整備をしてきたわけではない、数年空いていた家の庭を預かり、日々向き合わなくてはいけないという事実がある中で、住む家の隣の「庭」とどう向き合うのかを、庭仕事(とも言えないような、気分的な作業)をしていると頭に浮かぶ。浮かばざるを得ない。
1ヶ月ほど前は、庭に文字通り蔓延り紅葉の木々に絡みつく葛蔓や葎どもを討伐した。葛蔓や葎は強い。油断すればいつのまにかするすると手を伸ばし絡みつき、絡みついた先のみならず地面にも覆いかぶさり、差し込む陽を遮断してしまう。他の植物や生態が満足にすくすく育たないし、そもそも絡みつかれてすごく窮屈そうだし、家の壁にだと傷みの原因になってしまう。
引っ越してすぐに庭に触れて「まずもって土が見えねえ!」と叫んだ私からすれば、とにかくまずは地面が見えるようにしたいなと思い、親の仇が如く駆逐をしていた。
夏の午後、炎天下の中、大量の汗をだらだら流し庭の植物を駆逐しながら考えるのは「何故、この植物どもを自分は駆逐しているのだろう」ということ。そしてその中で存在したのが「庭とはいったいなんなのか?」であり「自分は庭とどう向き合うのか」という問いである。
そもそも自分の性質として、わりかし「そのままの自然や生態系に任せる」ことが往々にしてよくあると認識している。
人間社会の中だけでなく自然とか地球とかいう観点て考えれば特に違和感のない順行であるが故にあまり気に留めないとか、人間の活動そのものとて人の生活や営みの中から生まれるもので、無理と主義主張をかざして反対だの賛成だのと色分けしなくていいんじゃいかなあ、などなど。
もちろんその中には許容でき得るものできないものや、なんとなく熱くなってしまい看過できぬものなどはあるが、往々にして委ねる特性があると思っている。
それが故に、庭の植物が今まで手を入れられない状態で形成してきた生態系のようなものに手を入れて良いのだろうかという問いが生まれる。
そもそもヨウシュヤマゴボウだって葎の類だって、この家の庭に蔓延るのは何らかの必然性のもとで蔓延るだけの理由や運命があって、その植物どもがいたからこそ形成されてきた生態系があるはずだ。彼らは彼らなりに自身の生を懸命に全うし、その中で他の植物は虫や菌類や動物と何らかの競走共存関係を構築し、しかもそれが人の手が入らないからこそ何年もの間持続してきているのである。
恐らくであるが、自分が奴らを駆逐する中で新たに発生し作られるような生態系も存在をするはずである。日光が当たらずにいた地面に光が差し、地中には1種類の植物の根が張り巡らされていたのがなくなることで、そこには植物の更新が行われ新たな種が入り込む余地が生まれる。そこにまた新たな生態系が発生する。
ただ、それによって失われる生態系もあるに違いない。
それを、人為的に行うことに対して、自分の中でまだ整理ができていないのだ。
一方で、ヨウシュヤマゴボウや葎に対して駆逐する際に感情的になっている自分が存在することも事実だ。
自分が住まう家で、和室と縁側から見える庭の景色があり、その中で葎が蔓延って様々な植物に絡んだりすることによる鬱蒼とした様子。庭に極めて有毒な植物が蔓延して、子どもができた際に庭で遊んでいて口に入れる危険性があるものがあちこちにあるというような状況。
それに対して我慢ならないような感情が浮かび、徹底的に駆逐をしている自分に、自分でも驚いているくらいである。
余談だが、葎どもを一掃して庭がかなり明るくなった。
それまでも、引越し前に木の伐採などをやってくれていたのもあってそこそこ整備はされていたものの、そこかしこの雑木に蔓が絡みついている様は何やら不気味な雰囲気を醸していて、パッと見て鬱蒼としたような印象を持つような光景であった。狐狸の類がその中に住んでいてもおかしくなく、何かしらの得体の知れないものがそこに棲み着いたり何かがそこから生まれ得たりするような、少しく不可思議な雰囲気を醸し出す。夜になると静かな北小野の中でざわざわと何かがざわめき出して、飛び出してくるような予感がする。そんな「ざわめき」を人は幽霊や妖怪や狐狸の類になぞらえ、想像上で存在を作り出していったのだろう。
今の庭には、そのように小鬼が木の上に座っていたり、灯籠のそばにマリア様が浮かび上がったり、タツノオトシゴが木に孕んだり、そんな有象無象や神羅万象が生まれ得る様子は無くなった。
庭が明るくなったのは喜ばしいなと思いつつ、一方で失ったものもある。
そのアンヴィヴァレントさの中で、自らのスタンスが寄って立つところの足場や土台を決めきれずにいる。
思うに、形而上化での「思想」的な部分に対して、よりリアルで手触り感のある「生活」的な部分が、相矛盾するベクトルの中で鬩ぎ合っているのだ。
「こういうスタンスでありたい」とか「自らを正義ではこうでありたい」とか、そのように「ありたい思想」というものは存在する。庭に関する話であれば「できれば自然のままでおいておきたい」とか「生態系のままに任せたい」とか。ただ、それはあくまで理想の姿である。人間というものがもっと純粋な過ちを犯さないような存在で、理性的でのみ生きていけるのであれば、それは成立するであろう。
ただ、必ずしもそうではない。どんな人間でもそうであるように私も例に漏れず過ちを犯すし、感情に振り回されて理性なぞ吹っ飛ぶことがある。
「生活」とは、決して我々が逃れ得ぬ目線を疎らせずにはいられない、自身が生を営むにあたって寄って立つところの地平を形成するのっぴきならぬものである。であるがゆえに、自身が思い描く理想に対してそうではない現実と、それが故に、理性という綺麗ごとではない感情をこみ上げさせるものである。
「庭」とは、そのものは自然でありながら、あくまで自らの生活の範疇に存在するものである。物理的に自分の理想と生活が重なる場所であるが故に、庭に向き合うことで自分の中のそのような心象風景がリアルな実感を伴って表出してくる。
生活を営むが故に、生活の中で必ずしもともにいて心地よい相手ではない人間と付き合わざるを得ないが故に、その中で濁りが生じて、澱のように層をなしてこずんでいく。人が理性だけの綺麗事だけで終わらないのは、偏に生活が故である。
それを、私は面白いと感じ。
人が故の愛おしさではないかと思うのだ。
自身の理想を追い求めたいと思う。
いつまでもありたい自分を想定して、それを体現できている人に負けん気を覚えて、走っていきたい。
それを見据えながら、自らが寄って立つ「生活」から目を背けず、のっぴきならなく汚い自分を認識していきたい。
その中に、大切にしたいアイデンティティがあるのではないだろうか。