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男爪噛み、女化粧

 電車に乗っていると、時たま出会すのが、 大の大人の男の爪噛みである。八人掛けだか十人掛けだか忘れたが、向こう側の座席に座っている人を、一人ずつ眺めるのが私の習慣と言うか、悪い癖と言うか、人間を観察するのが好きなのか、ついつい見てしまう。

 十人中八人は、スマートフォンをじっと、まるで今にも死にそうな人の顔を見つめるように、身動ぎもせず見つめている人が殆どである。その他の二人の内の一人は女で、車内を化粧室と間違ってるのか、まつげ巻き上げ機で重たく下を向いている眠たそうなまつげを、無理矢理上に反り上げたり、ファンデーションをパタパタやったり、目の回りを黒く縁取ったりと、お顔の落書きに念入りであった。

 今は、こんなご時世だから流石にマスクの上から爪を噛む人間など、残念ながらもう見かけることもないだろうと思っていたのだが、つい先日、都内まで出かけた時、私はその爪を噛む男を見かけた。

 もうそれ以上噛んだら、指先がなくなるのではないかと思うくらい、とことん意固地に手羽先に食らいつくように爪に噛りついていた。マスクの下から手を入れてはカチカチ、マスクを少しずらしてカチカチ、まさしくこんな時代に不衛生だなと思いながらも、私はその人に気づかれぬように、ちらちらとその姿を眺めていたが、 あれは意識の問題ではなく習慣なのだろうと思った。

 自分で分かっていてやっているなら、ここは家ではないのだからみっともないからやめておこう、という理性もきっと働くのだと思うのだが、そうならないところを見ると、顔を洗ったり歯を磨いたりと、爪を噛むことがもう日常生活の一部になっているのだと思う。

 一方、 まつ毛巻き上げ機でここは電車内と認識出来ているにも関わらず、化粧品のコマーシャルのように、一から十まで落書きする前と落書き後を見せつける女もいれば、自分が爪を噛んでいるという認識がなく、手羽先のように爪に食らいつく男もいる。
 どちらも余り見ていて気持ちの良いものではないが、私はどちらかと言うと、無意識に爪をひたすら噛み続けている男の方が、気の毒でならない。
 他のことでこれくらい無意識に物事をやって退けられたら、どんなにか格好いいことだろうと思うのだが。
 爪を噛むくらいどうぞどうぞ、という気持ちにもなるが、そういう人に限って絶対に他の事はどんなに意識を集中させてやっても、爪を噛む程、自然と立ち回って上手くやれることはないのである。
 爪は爪切りなしでも、これでもかというくらい切れるのに、自分の力を込めたことは上手くいかない。 全くもって皮肉な話である。

 爪を噛む癖は心理状態も影響していると言うが、きっと、上手くいかない悔しさを爪を噛むことで発散しているのだろうと思いながら、私はまた、ちらちらとその男を見ていた。
 男は電車を降りるその時まで、一心不乱に爪を噛み続けていた。これから、また仕事で大きな取引でもあるのだろうか。
 私はふとそんなことを思いながら、小一時間一点を見つめたまま爪を噛み続けていた、その男の背中を見送った。

2022年9月19日 ・ 書き下ろし。


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