終戦記念日によせて
8月15日は日本が戦争に敗れた日。
あの年生まれた人は喜寿を迎えた。
それだけ昔の出来事になってしまった。
その昔の出来事を話してくれる証言者も、段々と時代の流れと共に世を去って行く。
このどうしようもない危機感というものを、私は毎年感じながらこの夏を迎えるのだが、これは時の流れと共に世代が入れ替わり、或る意味 極論だが、歴史も入れ替わってしまうというか、刷り変わってしまうことなのだろうかと思う時がある。
まるで、何もなかったかのように私達の頭の中では、過去に起こった大戦による悲劇、それはまったく経験したことがないものであるから、実体験として何も思うことはないと言ってしまえば、それまでの話なのだ。
痛みが伴わなければ恐怖もない。実体験として、何もないということがどれだけ恐ろしいことなのかということを、まざまざと突きつけられているような、そんな気がしている。
私は、あることがきっかけで、やはり先の戦争に対する思いや戦死した人、原爆によって命を奪われた人々に対する思いの温度差というものを、強く感じられずにはいられない。
もう少し、出来ることは少ないにしても、自分の祖国を護るために戦場へと駆り出され、そしてそのまま祖国に還ることがなかった兵士達が、今も何処かの土地で誰の骨かも分からずに、土の中で眠っている、若しくは野ざらしになっている髑髏が自分達のまだ還って来ない、先祖のものであるかもしれないという意識を持ってくれたらと、そう思うと私はどうしようもなくやるせないのだが、今の人達はやはり、戦争というものは起こらないと、心の何処かで思っているのだろう。
そういう危機感がない限り、先代がどのように国を護り、そこに住む親兄弟を護るために戦ったかということの本当の意味を、感じることもないのだろうと思う。
今現在、戦争に巻き込まれてしまった国は身近にある。そこでもやはり国のため、愛する家族のため戦っている兵士達がいる。
それと何ら変わらないことが、時代は違えどかつて日本でも起こっていたのだ。
そのことをもう一度、今現在、起きている他国の映像と重ね合わせて、自国の起こした戦争がどんなものだったかを考えるべきではないのだろうか。
そのツケを払わされるのは、いつの時代も変わらない、私達一般市民だ。
私は、そんなことをいつも考えている。