【麦酒夜話】第六夜 メコンデルタの誘惑
(第5夜 ホーチミンの警告からの続き)
オップは、翌朝ホテルの前で早くから待っていたようだ。私たちを見つけるなり、早く行こうと声を掛けてくる。ミトーまでの道のりは1時間ほど。高速道路らしい道を、ヘルメットもなく2人乗りで走る。時速は110kmほど出ていた。舗装はされているけれど、ところどころ砂が散らばっている。そのたびに急減速するから生きた心地がしない。こけたら最後。そう何度も心の中で叫んでいた。そんな心配をよそに、何事もなかったかのように、メコンデルタの町ミトーに到着。橋のふもとに船があり、それに乗り換えるよう言われた。オップの仲間なのか、英語も日本語も話さない、ジャッキーチェンの映画に出てくる端役のような新キャラ数名に案内され、船に乗り込んだ。
川の水は日本のように紺ではない。コーヒー牛乳のような黄土色だ。かつて上海に船で渡った際、ああだから「黄海」というのだと驚いたが、まさに同じ色だった。しばらく進むとジャングルの様相を呈してきた。映画プラトーンの世界みたいだと感心したが、それもそのはず、まさにここがその舞台なのだから。木々の葉で薄暗く、現実離れした風景は、やや心細くもある。ここはどこなのだろう。どこに向かっているのだろう。まだまだ午前中、当然しらふなわけで、昨晩のように気持ちが大きいわけではない。そんな時、向かいから船が来た。少し大型で観光客が大勢で乗っている。小さい船もある。見れば無数の船が狭い川をお互い譲り合って進んでいる。手を振ると、手を振り返してくれる。ここは観光ルートなのか。人は、人を見るとホッとするもので、それまでの不安は消し飛んでいた。
昼食は川魚のフライ。その後カラオケを楽しみ(ほとんど歌えるものが無い)、ビールを飲んだ。途中、先生なる人物も合流した。英語が話せ、紳士的。たしかに先生という人物だ。夕方近くなると、蛍を見に行こうという。こんな混濁した川に果たしているのだろうか。そんなことを考えていると、先生から話があると呼び出された。「どうだ今日は楽しかったか?」2つ返事に楽しいと答えた。「そうだろう、食事も豪華だったろう。勘定がまだだったと思うが、2人で2万円だ」。一瞬ですべてを悟った。そして、かつてバイト先の友人がベトナムで同じ目に遭ったという話を思い出した。何故今になって気づいたのか…。その友人はしかし、金を持っていない、ホテルに置いてきた、と言って難を逃れたと話してくれたことも思い出した。そうか、その手か。「すまないが、ホテルにお金を置いてきた。オップが言う12ドルしかない」そう言っている最中、Tくんはあろうことか、相手に財布の中身が見えるようにお金を探し出した。そして「はい1万円」と気前よく払うじゃないか。えー!なんですか!とはいえ、私は払いたくない。抵抗して、3000円だけ渡した。
蛍は日本のそれと違って、風情が無かった。点滅速度が速いのだ。切れかけのウインカーのようで、せわしない。オップがペットボトルに複数匹捕まえ、これをお土産にしろという。ホテルの部屋に逃がすときれいなのだとか。私は正直、早く帰りたいという気持ちで、その場を楽しめなくなっていたが、Tくんは割り切りがいいのか、メコンに飛び込む大はしゃぎぶり。全くのノーダメージのようで、羨ましくも、憎たらしくもあった。
ミトーからホーチミンに帰ってきたのは20時くらいだったと思う。夜はすっかり暮れていた。オップさんは、先生と私たちのやりとりを知らない体でいた。12ドル渡して、解散した。それでも商魂たくましく、翌日のツアーを誘ってきたが、さすがにノーサンキューの一言だ。その日の夕食に何を食べたのかは覚えていない。飲んだビールの味も銘柄も覚えていない。覚えているのは、2つ。1つは、翌日ホーチミンを離れるため、ダーラット行のバスを予約したこと。もう1つは、ホテルの部屋にホタルを離したT君が、思いのほか落ち込んでいたこと。「日本であれだけ飲み食いしたなら、1万円くらい当然やろ」という威勢のいい言葉とは裏腹に、やられた―と力なく笑う姿が、チカチカ光る蛍とともに、今日という日を物語っていた。なぜ、「ホントウニキヲツケテ。アブナイヨ」という警告を無視したのか。メコンデルタの誘惑に負けた後、見返した地球の歩き方にも警告が載っていた。しかし、今となっては、良い思い出である。分別のつく大人になった今、恐らくこんな冒険はしないだろう。若さゆえの、またビールが突破した縁だったのかもしれない。酒の力、酒の勢いとは、こういうものなのだろうか。
翌朝、部屋の床には大量のコバエが死んでいた。よく見ると、昨日の蛍だった。