短編小説・「光の広場」



 心が躍り出すほどの快晴だった。毎週日曜日になると秋葉原では歩行者天国ができる。この日もそうだった。神田明神通りと中央通りの交差する場所は特に通行人が多かった。そこを目がけて十二時二十分ごろ、二トントラックが物凄いスピードでベルサール秋葉原を左手に走ってきて数人を轢いた。二トントラックは後退して方向を変えた後、秋葉原駅の方に向かって走っていった。その時向かってきたタクシーと正面衝突し停止した。交通事故だ。誰もがそう思った。群衆の不安がピークに達するのは皮肉にもその後、狂った男がタガーナイフを手にして誰彼構わず刺していってからであった。悲鳴が響いた。もはや歩行者天国は地獄と化した。倒れた数人の周りには見物人が集まった。助けようと駆け寄る者、ただ傍観する者、何事もなかったかのように通り過ぎる者。その異様な出来事を前に人々が見せる反応は多様だった。
 男の目は洋介を射止めた。そして洋介の右の脇腹を刺し次の獲物を狙いに行った。男はダガーナイフから伝わる洋介の筋肉や脂肪や臓器の感触に命の輝きを感じた。それを奪うことに男は躊躇しない。あまりにも突然の出来事に康一は手が出なかった。洋介が倒れる瞬間だけはスローモーションに見えた。
 「撮るな!見世物じゃねぇんだぞ」
 携帯を取り出し写真を撮っている人に向かって怒りを露わにした。
 洋介の右の脇腹の傷口からは出血が止まらなかった。康一は右ポケットからハンカチを取り出し止血を試みたが一向に止まる気配がない。しばらくすると洋介の意識が飛んだ。
 「おい、洋介!しっかりしろ!」
 康一は着ていたシャツを脱いでさらなる止血を試みた。
 「これ、使って。役に立つかも知れない。」
 隆司がAEDを持ってきた。秋葉原での暮らしが長い隆司は秋葉原駅周辺のどこに何があるか把握している。
 「ありがとうございます!」
 康一は慌てて洋介のシャツを破いた。
 その頃、美沙はビックカメラ付近にいた。物凄く動揺していたが倒れている人の所へ駆け寄った。
 「大丈夫ですか?大丈夫ですか?」
 倒れていたのは中年男性だった。美沙は必死に中年男性の頬を叩いて安否確認をした。胸に耳を当ててみると息絶えたわけではなさそうだ。美沙は急いで心臓マッサージと人工呼吸を始めた。
 「私は医者です。手伝いましょう。」
 そう言って駆け寄る者もいた。
 事件発生から二十分後、救急車が到着した。
 ダガーナイフを手にした男は警官に追いつかれ静かな格闘を繰り広げた後、逮捕された。
 日光がガラス張りのビルの窓に反射しビル自体が光を放っているかに見える良く晴れた日の出来事であった。
 
二 
 「バイト君、四人おいで!」
 「ハイ!」
 威勢よく返事をして声をかけた人の所へ駆け寄った。
 「このテープとってさ、適当にまとめといてもらっていい?」
 「ハイ!」
 洋介は少しもたつきながらテープを外した。軍手をはめたままではなかなか剥がれない。苛立ちを抑えながら手を動かした。
 イベント設営のバイトはかれこれ一年以上続けている。洋介は仕事の要領が悪い。経験があるにも関わらずその仕事ぶりはまるで新人だ。それなのに仕事を変えないのは他に就職口が見つからないからであった。
 テープを全て外したはいいものの自分が今持っている黒い物体をどこに持っていったらよいのか、そもそもいつ何のために使うのか分からなかった。
 「それバラしてさ、コード巻いて東側の入り口の脇に置いておくらしいよ。」
 声を掛けたのは康一だった。洋介と康一は同じ現場に入ることが多かった。元々友人で一緒にバイトを始めたわけではない。顔を合わせることが多く自然と仲を深めていったのだ。
 「モタモタするな、このくそが!」
 口は悪いが面倒見の良い古田さんは大工で現場全体を仕切っていた。バイトを続けている内に顔見知りになった。
 「それじゃあ今から二十分間休憩に入ってください。今いる十人で休憩取ってもらうんで一緒にまた戻ってきて。」
 敬語を話したいのかそうでないのかよくわからないリーダーの指示に従い吸いたくてたまらなかった煙草を吸いに洋介と康一は喫煙所に向かった。部屋が用意されているわけではなく冷え冷えの暗闇へ出ていかなければならない。
 「冷えるなぁ。」
 康一はぽつりと言った。
 「そうだな。」
 マールボロに火をつけながら洋介が言った。洋介の口から吐き出された煙は暗闇の色をした空へゆっくり消え入った。どこか心細げに。
 「今日はあまり長くはかからなそうだな。」
 いつも先に話しかけるのは康一の方だった。洋介はいわゆる世間話が得意ではない。それに比べて康一は気難しそうなオーラを放ちながらも気さくでよく話す。ミュージシャンを目指して上京し歌を作ってあちこち売り込んでいるのだが芽が出ずにとうとう田舎の建設現場のアルバイトで貯めた金も底をつきイベント設営のバイトをやり出した。
 「俺は絶対プロになる。」
 康一の口癖だった。反骨心を持ち続けるためにアーティストの裏側で働くこの仕事を選んだらしい。いつまでも裏方でくすぶるんじゃねぇぞ。その気持ちを持ち続けるために。
 康一の歌を洋介は聴いたことがある。小さなライブハウスでハイネケンを片手に聴いた。背が高く色白で細身の康一がギターを弾くとそれっぽく見えた。ドラムやベースは付けずギター一本で自作の曲と自分の声で勝負していた。
 「詞を書くこととメロディを作ることはほとんど一体化しているものだよ。言葉には音がくっついている。」
 ライブが終わって康一が言っていたことだ。音楽にも文学にも大して興味がない洋介は理解できなかった。しかし友達が一生懸命やっていることについての話を聴くことは楽しかった。
 洋介は洗濯かごで洗濯機に入れられるのを待っているくたびれたシャツのような生き方をしてきた。やる気がなく積極性もなくいつも受け身でだらしない。なんとなく義務教育を受けなんとなく大学に入りなんとなく就職活動をした。そのような覇気のない若者に仕事をさせたいという企業はどこにもなく不採用通知ばかりが届いた。頑張って生きているわけでもなく別段死にたくもなかった。就職先が見つからないまま大学を卒業してしまい仕方なく選んだのがイベント設営のバイトだった。採用を断られ続けていたのにイベント運営会社での面接は志望理由や長所や短所を聞かれることなくトントン拍子で進みあっけなく採用となった。名前や住所、マイナンバーなど必要事項を記入し判子を押すだけで仕事を振ってもらえた。洋介は少し救われた気がして安堵の笑みを浮かべた。
 最初に入った現場はアイドルのライブ会場の搬入業務だった。何もなかった空間に巨大なステージが組み立てられていく光景に洋介は興奮した。百人は優に超すであろうスタッフ達がそれぞれの作業を一斉に始めるものだから機材と床が触れ合う音や人間の怒鳴り声が大音量で鳴り響きそれはまるで巨大な怪獣がその姿を露わにするかのようだった。
 指示を出す人たちと日雇いバイト達の違いは明らかだった。前者のヘルメットには名前が書いてあり後者のヘルメットには大道具、音響、特効、フリーなどの役割名が書いてあった。後者はいつだって「バイト君」なのであった。
 一回の現場で支給される賃金は平均すると六、七千円でそのため週に五、六回入れないと生活ができない。バイトをしない日は就職活動をするでもなく一日中寝ていた。空腹を感じたら牛丼屋に行き並みか大盛を注文し勢いよくかきこんだ。夢がなく目標もなく死んだように生きる若者にとって空腹を満たす時間は唯一「生きている」実感が持てた。髪は伸ばしっぱなしで髭も同様だった。そろそろ切らないと、ということを何度も考えたが女性にナンパしてセックスする予定はなく誰かの結婚式に出席する予定もなかった。気にならなくなるのは時間の問題だった。
 煙草を吸っていた二人のもとに古田さんがやってきた。
 「兄ちゃんまた会ったなー。一昨日はNHK、昨日は幕張で本当参っちゃうよ。」
 身長は低くほぼ白髪で前歯は欠けている。お腹だけがぽっこり出ていて蛙のようだ。
 古田さんには娘がいて休憩の度に写真を見せてくれる。
 「可愛いだろ?まだ二歳なの。」
 古田さんの年齢にしては随分と幼いな、と洋介は思った。
 洋介は子供が欲しいと毎日のように思っている。家庭を持った時は子沢山で賑やかな方がいい。だが結婚する気にはなれない。周りの人達には妻は要らないが子供は欲しいだなんて身勝手だと散々言われた。最近の若者が結婚したがらないのは現代社会の人間関係の希薄さを示す何よりの証拠だといかにも評論家が言いそうなことを言われたこともある。お昼のワイドショーでもないのに他人の人生について口を挟みたくなる心情が洋介には分からなかった。
 「休憩終わりだ。行こうぜ。」
 康一にそう言われ重い腰を上げて集合場所へ戻った。
 「今日送迎するから君はラストね。アキバだよね?」
 「はい。」
 洋介は残念そうに言った。
 眠たい体を引きずりながらまた音響機材を運び始めた。一番の問題は見知らぬ人と息を合わせることだった。「せーの」と声を掛ければいいのだが思うように声が出ない。自分と関わらない方がいい。会話を交わすと貧乏神が乗り移るぞ。
 段々と終わりが見え始める。洋介は汗だくになりTシャツの色にグラデーションがついた。既に飽き飽きしていた。
 JR秋葉原駅の電気街口に下してもらい家を目指してとぼとぼ歩いた。日中も夕方も人間の嵐ができるというのに終電時間を過ぎるとしんと静まり返っていた。車の中で支給されたハンバーグ弁当を食べただけでは物足りずいつもの牛丼屋に立ち寄った。空腹だからというより無性に食欲がわいたからだ。それは得体の知れない何かを埋めるためのものだ。わずかばかりのワカメしか入っていない味噌汁を一すすりしても心が温まらない。おしんこをつまんでメインにとりかかっても喜びを感じない。
 俺はこれからどうなってしまうのだろうか。毎日牛丼を食べ「バイト君」になったあとはただ眠るだけの毎日。ぼんやりとそう考えながら機械のようにただただ牛丼を口に運んだ。チェーン店の牛丼の味はいつ食べても変わらない。だけど繁盛する飲食店というのは常連でも分からない位のほんのちょっとした進歩を繰り返して味の水準を保つらしい。この牛丼だって小さな進歩を繰り返していて自分は気付いていないのかも知れない。自分の人生は昨日に比べて今日何か進歩しただろうか。変わらない毎日を過ごしいつかは誰にも食べてもらえず誰にも「ごちそうさま」と言ってもらえなくなるのではないか。そう考えるとぞっとする。突然食欲が失せて半分以上残し店を出た。
 人工的なビル街の景色と鬱々とした夜空の組み合わせは不気味なくらいマッチしていた。洋介は星空が見える田舎の空を思い返した。家に帰れば五人のルームメイトがいるというのに孤独感と不安で押し潰されそうになった。洋介は幼いころから孤独を好んだ。物心ついた時、気付ば母親は仕事に行き留守がちで独りで過ごす時間が長かったせいか孤独は洋介の相棒になった。友達がいなかったわけではない。いじめられていたわけでもない。ごく自然に独りで過ごすようになった。独りではあるが自分はどこかで誰かと繋がっていて無関係なことはないと洋介は思っていた。自分と外界の領域がぼやけていたのでは決してない。むしろはっきりしていた。洋介は外の世界と自分の内面の世界の距離感を掴むのが上手だった。例えばおやつのアーモンドがアメリカ産だと知ると自分もアメリカの経済活動に組み込まれているのだと自覚した。大学入学時に購入したMacbookの原材料はアフリカで採れるもので、その資源をめぐって民族間の争いが起き小さな女の子がレイプされたと聞けば自分を責めた。しかしアフリカに行ってレイプを阻止する勇気が洋介にはなかった。そのことがさらに自分を責める要因になった。
 帰宅すると三人はまだ寝ていないらしかった。洋介はベッドに寝転がった。トムのパソコンの起動音が響く。深夜だというのにまだゲームをしているようだ。洋介の住むシェアハウスは五人中三人が外国人だった。流しがよく詰まることと誰かが炊飯器の汚れを放置することが度々あることを除けば概ね満足していた。隣で寝ているウォラカーンの笑い声、屁の音、食事をする音など生活音が聞こえてくる。住み始めたころは自分の出す音を遠慮がちに出していたが次第に気を遣わなくなった。バラエティ番組を見るときは大声で笑った。屁をするときは思いっきり出した。狭い空間であるがゆえにその思いっきりの良さは少しばかり心を開放し隣人との連携感を深めるために必要なことだった。
 「来月さ、結婚することになった。」
 康一が唐突に言い出した。
 「え、歌はどうするの。」
 「子供出来ちゃってさ。やめるつもり。」
 「は、はぁ・・・」
 話があるというので康一から居酒屋に呼び出された洋介は手に持ったビールジョッキを一旦口につけたものの飲むことなくゆっくりとテーブルの上に置いた。
 康一が歌をやめることについて洋介は許せなかった。やめないように説得すべきだと思った。
 「でもさ。子供がいるからって夢を諦める必要は無いと思うけど。」
 「子供がいたら、色々金がかかる。あと、なんていうの?責任を取るというのかな。」
 夢についての責任は果たしてどうなるのだろうか。洋介は思った。
 自分が持っていないものを持っているから康一が好きだったのに。好きなことがあってやりたいことがあってそれで毎日を必死に生きている康一が好きだったのに。結婚することと子供を育てることはどちらも大切なことなのかも知れない。だが歌を捨てる選択は康一らしくないと思った。
 「康一。歌はやめるな。」
 「子供はどう育てるのさ。」
 「育児が一段落するまで待って落ち着いてからまた歌ってもいいじゃないか。」
 「育児が終われば学校が始まる。教育費だってかかるさ。」
 「行かせなきゃいい。学校なんて大人の言うことを聞くまじめくんを社会に出荷する工場みたいなものだろ。」
 「とにかく子供を育てるにはお金がいるし俺の歌なんかちっとも売れてないし親が守ってやらないと子供は駄目になるだろ?」
 「親がいなければ子供は生きていけないが子供がいなくても親は生きていける。夢を諦めたお前は生きていると言えるのか?」
 康一は下を向いたまま何も言わなかった。
 「んだよ・・・」
 康一の唇が震えた。
 「お前なら祝ってくれると思っていた。がっかりだ。」
 そう言い放つと店を出て行った。ジョッキに残っているビールを呑んだ。いつの間にか泡が抜けていてぬるくなっていた。
 康一からの音沙汰はそれ以来なかった。少し言い過ぎたかも知れない。謝ろうと思い何度も電話を掛けたが出る気配がまるでない。
 自分の本心がはっきり分かったことは未だかつてなかった。康一が歌をやめるべきでないことは紛れもない本心であった。強烈だった。
 バイトの現場で会うこともなくなった。きっと就職したのだろう。もう康一と会うことはこの先ないのかも知れない。洋介は次第にバイトを続ける気が失せてきてしまった。そろそろこの仕事をやめようか。本番がまだ終わらず待機していた時そういった考えが駆け巡った。
 ディナーショーの歌い手がもう間もなく最後の歌に差し掛かろうとしていた。その歌い声が舞台袖から漏れ聞こえてくる。洋介は何げなくその歌を聴いた。
 「
   あなたが去った後の
   煙草の残り香
   嗅ぎながら悲しみに溺れる
   あなたのいない孤独な夜
   夜明けが来るまで
   じっと待つわ
   あぁ私の人生よ
   永遠に幸あれ
   あぁ私の人生を
   そなたの場所へ運んでおくれ
                  」
 歌が終わると会場は拍手の渦と化し聴衆の熱狂が伝わった。哀愁に満ちたメロディ、人生の苦楽の波を表現するかのようなビブラート、感情が込められたこぶし。洋介の耳は長年離れ離れになっていた家族と再会した時のような喜びに包まれた。
 ディナーショーが終わり洋介は警護に借り出された。テレビで見たことのある歌手だ。熱狂する聴衆と向かい合わせで立った。洋介は未来の自分を想像した。スポットライトを浴びている自分を。
 康一と洋介が偶然にも再会できたのは路上で歌う洋介を康一が見かけて声を掛けた時だった。どうしてよりによって演歌なのか。しかも驚くほど音痴である。康一は洋介を馬鹿にする気持ちとまた会えた喜びで笑いが止まらなかった。その日から二人は一緒にカラオケに通い歌の猛特訓を始めた。康一は自らの歌の技術を洋介に教え込んだ。歌い疲れた後は街に出た。一杯の牛丼を求めて。
 

 服を着替える度に心や過去さえも変えられたらいいのにと美沙は思う。本来の自分でいることは嫌いだったし苦手だが他者になり切ることは好きだ。服を着替えたら男になれる。猫にだってなれる。変幻自在だ。特に美沙は可愛いメイド服への憧れがあった。
 美沙が勤務するメイド喫茶の営業が十七時丁度に始まった。
 「お帰りなさいませ、ご主人様!」
 声を張り上げるというよりいつもの声よりトーンを高くし可愛げに明るい響きを持たせよく通る声で挨拶するとよい。何度もお出迎えの挨拶を繰り返す内に分かったことだ。席に案内した後、素早く入店時間を確認し注文票に書き込んだ。初めて入店する客にはおまじないをかけてスタンプカードを発行する。呪文は言いにくいけれど夢の中でも言えるくらい美沙の体の一部になっていた。ここでは美沙ではなく「みぃ」でいるのだ。「みぃ」はこの店で一番のベテランメイドだ。「みぃ」の他に十人のメイドが働いている。営業時間は平日の場合、十七時から二十三時まで。土日祝日の場合、十七時から翌日の三時までである。平日はメンバー替えをせず五人のメイドで店を回す。この日は「みぃ」以外に四人のメイドで営業する。
 新入りの「あみん」は良く働く子だ。入って三か月ほどになるが接客は気持ち良く、美人であるので常連客の評判もすこぶる良い。看護師になるために短大に通っている。アルバイトの子はいい加減な仕事をする子もいるのだが「あみん」は真面目に良くやってくれている。
 「あみん」が入店したその瞬間のことを美沙はよく覚えている。昔の恋人によく似ているからだった。彼女は何の予兆もなく自ら命を絶った。ベランダに縄を縛って首を吊ったのだ。喧嘩を繰り返しながらも愛し合っていたのに。「あみん」の顔を見ると激しく動揺し忘れようとしていた思い出が蘇る。
 オムライスの注文が入り「みぃ」は黄色いキャンパスの上に赤い猫を描いた。絵を描くことは得意ではないが家でたくさん練習してなんとか描けるようになった。客も満足している。「みぃ」は自分の描いたイラストを褒められ得意げだ。まるで自分の全人生を肯定してもらったような気持ちになった。
 美沙は「みぃ」より地味な子だ。男性物のチェックシャツを羽織ってジーパンを履きお洒落には興味がない。美沙は必要以上に自分自身を卑下した。卑下するようにプログラムされている。いつからそうなっているのか美沙はもう忘れてしまっていた。    
もしかするとみんなと同じでないことがいけないことだと思っているからかも知れない。
 美沙が中学三年生だった頃、初めて彼氏とセックスをした。彼が上半身裸になった時、美沙は乳房がないことに物足りなさを感じた。おっぱいがあればいいのに。どうして無いのだろう。美沙が欲しがったのは男性の筋肉ではなくおっぱいだった。恋人に持っていて欲しいのだ。美沙の友達には彼氏ができる人もいたしそうでない人もいた。彼女ができる人はいなかった。美沙はみんなと違うことは悪いことだと思っていた。彼氏ではなく彼女が欲しいと思うことは悪いことだと。誰かがそう忠告した訳ではなかった。なんとなく、直感的にそう思うのだった。
 あるいは彼女の異変に気付いてあげられなかったからなのかも知れない。高校に上がって初めてできた彼女だった。いつも美沙の気持ちを満たしてくれていた。彼女が亡くなってからは恋人を作る気力が無くなっていた。
 毎週金曜日の夜、仕事が終わると美沙は神田明神を訪れる。お参りがいいリフレッシュになる。たかが五円で神様がすべてのお願いを聞き入れてくれるとは思わない。だけど何かに縋りたいと思うのが人間の性で、美沙にとって神社は縋るものの一つだった。
美沙は五歳の頃両親に連れられて初詣に行ったことを鮮明に覚えている。列に並んでいると何をしにここに来たのか忘れてしまうほど長い時間を待たなければならなかった。どうして日本人は初詣に行きたがるのだろうか。普段、神社にお参りする人はどれほどいるのだろうか。初詣がその年の最初で最後の参拝だという人は確実にいるだろう。幼心にそれはとても不思議なことだった。お好み焼きやイチゴ飴や焼きそばの混じった匂いが漂いお祭り気分を増長させる。美沙のお気に入りはおやきだった。特に野沢菜味が好きだった。神田明神では毎年出店してくれていて美沙はおやきを食べる度に子供の頃へタイムスリップするのだった。
いつか「あみん」と一緒に神社を散策したい。「あみん」は神社が好きなのだろうか。
心臓がぐらつき始める。胃液が這い上がってくる。美沙は胸に掌を当てて落ち着くまで待った。いくら待った所で心臓は眠ることを知らない。頭の中が真っ白になる。誰かが鼻の穴にストローを差して脳みそをすべて吸い尽くしてしまったかのようだ。何も考えられない。こんなに苦しいのなら人間をやめてしまいたい。人並みになりたい。みんなの中に溶け込みたい。性別を変えられたらいいのかも知れない。だが、男社会で生きること。それはそれで大変そうだ。仮面ライダーや戦車、カードゲームといったものにそれほど関心がないからだ。性別を変えられるなら彼女が欲しいと思うことはみんながすることだから私は私を卑下しなくていい。
美沙は客として「みぃ」の居場所に行ってみた。店員がみな、巫女の格好をしたカフェに行きたいと初めて思った。だが美沙は巫女の格好をするのがそれほど好きな訳ではない。メイドの格好をする方が好きだ。
「あみん」がカクテルを作ってくれた。カルピスが入っている。濃いめで相当甘い。
「先輩、珍しいですね。」
「そう?割とよく来るよ。てか美沙さんとかでいいのに。」
「だって先輩は先輩ですし。」
「なんか偉そうであんまり好きじゃないのよね、先輩という言葉が。」
「あみん」が自分の写真にメッセージを書き込んで美沙にプレゼントした。「あみん」は可愛らしい字を書く。私もこういう風に書けたらいいのに。
 薄紅色のとても美しく可愛らしいカクテル。一人で飲むには勿体ない。
 「あみんも一緒に飲もうよ。」
 「やだなー。何言ってるんですか、先輩。営業中ですよ?」
 「はは。そうだった。じゃあ終わったら飲もうよ。」
 「うーん。今日は疲れてるし今度行きましょう。」
 「オーナーに言っちゃうよ?あみんは先輩の指示命令を聞けない悪い子だって。それでもいいの?」
 思ってもみなかった言葉が美沙の口から飛び出た。美沙は自分でも驚いた。
 「え・・・」
 「あみん」は動揺した。
 「今飲もうとは言ってないじゃん。店終わったらって話よ?」
 「じゃあ・・・いいですよ。」
 恍惚と思える時間を美沙は過ごした。「あみん」と二人で話をしていると思った通り、いや思った以上に性格がよく頭もよく気が回る子だ。地球上には「あみん」と私。それさえあれば他には何も要らない。
 どんな化粧品を使っているのだろう?どこのヘアサロンに行っているのだろう?「あみん」のすべてを私はコピーしたい。
 高校時代の記憶が蘇る。学校が終わると彼女と一緒に下校した。周囲に誰もいないことを確認するとそっと手を繋いだ。互いの歩幅を合わせながら腕を大きく振った。この世界は私たちのもの。二人が描く半円に世界のすべてが吸い込まれる。美沙の部屋には美沙と彼女の二人。二人だけの空間。何をしても許される。ただただ天井を眺めて何も考えずに過ごした。美沙が彼女の頬に静かに口付けした。美沙の頬は紅く染まった。
 気が付くと美沙は一人、部屋の中で裸で寝ていた。「あみん」は美沙には何も告げずに出て行ってしまった。後悔してはいない。かといって満足してもいない。昨晩、、私は何をしていたのか。いつもの私じゃない。「あみん」の前でだけ私は豹変する。
 美沙はふと、全身鏡の前に立ち、自分の全裸姿を見た。少なくとも昨日より私の裸は美しくなっている。肌つやがいい。乳房だってちゃんとついている。初めて自分の顔や体をまじまじと見ても許される気がした。


 電車が通る度、内臓が揺れる。朝が来てもそれと気付かない。冬が来れば寒さが肌を突き刺す。隆司の感覚は以前より確実に敏感になった。普段、寝ている場所では沢山の人が通る。教会の人やNPOの人達は頻繁に声を掛けてくれる。あなたは神を信じますか。次回の炊き出しは来週の水曜日ですよ、住宅支援ができる制度がありますのでもしよろしければ相談してください。隆司はうっとうしいと思ったことは一度もなく丁寧に言葉を取り交わす。寝床の前に置いてあるペットボトルの底を切り取った隆司の財布には五百八十二円が入っている。昨夜は三百八十円入っていたのだが寝ている間に二百二円を誰かが入れてくれたのだろう。お礼を言うこともできず隆司はすやすや寝ていた。お金を入れてくれる人で一番印象に残っている人は髪を緑色に染め、耳と唇にピアスを開けている若い男性だった。彼は無言で隆司の財布に五百円玉を入れた。初めてお金を入れてくれた人だ。五百円玉と財布がぶつかる音は寂しくて空しかったが隆司の耳にはそういう風に聞こえず、むしろ教会の鐘の音のように聞こえた。結婚式のときに鳴る鐘のようであり毎週日曜日の礼拝のときに鳴る鐘のようでもあった。あるいはそれは新しい命が誕生した時の音のようだった。
 隆司の行動範囲は大体決まっていた。用もなくコンビニエンスストアに入る。隆司の体臭のせいで何人かは振り向く。隆司は毎日グレーのフード付きパーカーにカーキ色のカーゴパンツの格好をしていた。パーカーの袖は真っ黒になっていて穴がぽつりぽつり開いていた。
 何も買わずにコンビニエンスストアを出ていくが行く当てはない。ただただひたすら歩く。隆司は歩くのが好きだ。
 「また来たの?」
 ケバブ屋の店員とはすっかり顔馴染みになった。隆司がケバブ屋の前のごみ箱を漁っていた時店員が声を掛けたのだ。それは店の印象が悪くなるからかも知れないしあまりにも哀れだったからかも知れない。ケバブ屋から漂う香ばしい肉の匂いを嗅ぐことが隆司の数少ない楽しみの一つだった。匂いを嗅ぐだけで空腹が満たされた。肉だけではない。チリソースやカレー、マヨネーズの美味しそうな匂いが全て集まった場所がケバブ屋なのだ。
 「もう帰ってヨ」
 隆司の存在が邪魔ではあるが気がかりでもある。
 「もう、しょうがないなぁ。」
 店員はそう言うと大きな肉の塊から一口分だけ切ってプラスチック容器の上に乗せマヨネーズをかけて隆司に渡した。
 「うまい。うまい。」
 隆司は肉を受け取ると少年のような笑顔を見せた。
 「ありがとう。ありがとう。」
 「今日だけだからネ」
 隆司はまた当てもなく歩いて行った。
 隆司はなぜ、自分が秋葉原にいるのか思い出せない。だが目に飛び込んでくるファーストフード店のロゴを見る度にハンバーガーやフライドチキンを美味しそうに頬張る少年が見えてくる。それは自分自身なのかそれとも自分の子供なのか分からない。少年は野球が好きなようで野球帽を被っていてユニフォームを着ている。
 「グローブ買ってよ。」
 そんな声が聞こえる。隆司には買えない。
 時間が経つと少年の姿は霞んで見えてやがて消滅する。それが誰なのか現実か幻影か分からない。
 隆司の日課はチラシをもらうことだった。
 「フクロウカフェ、いかがですか?」
 「カフェ&バーいかがでしょうか?」
 「ここって画廊なんですよぉ、よかったら寄って行きませんか?」
 チラシをもらうのは無料で尚且つチラシを配っている女の子は喜んでくれる。隆司の貴重な話し相手だ。
 「あっ!今日も会いましたねぇ。いつもありがとうございます!」
 「あ、いや・・・まぁ・・・。」
 「これ配るのにノルマがあって。もらってくれる人も少ないから助かります。」
 隆司はチラシをもらっても店に行くことはなかった。
 「寒いのに大変だよね。」
 欠けた前歯をちらつかせながら隆司が言った。
 「今度ボーナス入ったら店行くからさ。」
 隆司は少しだけ強がってみせる。
 食べ物を手に入れるために隆司は空き缶を集める。コーラの空き缶が一番目立つから好きだった。段ボールを集めることもある。長い冬を越すためだ。新聞紙があれば尚いい。
 何も考えずに空中を眺めた。時々意識だけが肉体を離れることがある。その瞬間だけは野生動物になるのだった。肩書を持たなくても生きていける野生動物に。隆司は自分が人間であることさえも忘れる。人間に生まれなかったら空を飛びたいと思っていた。小さな鳩でも鷲でもよかった。アスファルトの上に座り込んでいる体は頭の中でなら空中を彷徨える。
 溜まったチラシを取り出した。百枚以上はあるだろう。一枚一枚じっくり眺めた。誰からいつもらったものなのか隆司はもう覚えていない。しかし声は覚えている。ほとんどが女性からもらったものだ。女性の声は普段聞き慣れているものとは随分と違う。隆司の仲間たちは皆男性だ。彼らの声はしゃがれている。年齢も声も似通っている。そして電車の音。隆司の頭上を電車が通る。電車に乗ったことがあるかどうかさえ思い出せないのだが実体が見えないのに音だけが聞こえるなんて怖い。一方で女性は美しい。声の響きもいい。顔がしっかり見える。
 一枚だけ印象に残るチラシがある。メイド喫茶で働く女性からもらったものだ。何度も顔を合わせていて親しくなった。隆司が寝泊まりする場所でチューハイとカップ酒を酌み交わしながら一晩中語り合ったこともある。その女性は愛する人を自殺で亡くしたのだという。そのことが本当か嘘かはわからない。本当なら残酷だ。ホームレスの俺でもしぶとく生きているんだ。なのになぜ。
 女性はぐったりして涙を流していた。個人的な話を見ず知らずの自分に話してくれたことが嬉しかった。隆司は女性の背中を擦った。
 しばらく隆司はかけるべき言葉が見つからなかった。他力本願という言葉が好きではないがここぞばかりの神頼み。二人は神田明神で祈りを捧げた。すると女性にかけたいと思う言葉がふっと降りてきた。
 一生、忘れなければいいんじゃないですか?深く愛した人なんでしょ?ずっとその人の魂を忘れないであげたらいいんじゃないですか?
 女性は何も言わずただじっと隆司の声に耳を傾けていた。
 あなたは死なないで。最期まで生き切るのです。
 女性は小さく頷いた。もう少しで夜が明ける頃だった。


 母が逝った。
 母が死んだら私は泣くだろうかと、人間というのは肉親が死んだら泣くものなのだろうかと疑問に思っていた。私は考えても仕様がないことをしつこく考え込む癖がある。だから死ぬまでに解かなければならない謎が多い。なぜ、空は青いのか。なぜ、人間は死ぬのか。なぜ、母は私を殴るのか。なぜ、父は母を殴るのか。結果的に母が死んだ時、私は泣かなかった。泣く気すらなかった。私の家族は分裂している。父は母の葬儀に姿を現さなかった。弟は部屋にずっと引きこもったまま働こうとしない。葬式は非常に気だるい作業だった。
 母との思い出の中に碌なものはない。母はいつも私にいい子でいることを求めた。母自身、有名な進学校を出ていたのが関係しているのかも知れない。しかしなぜかエリートの道を捨てて大学には行かずにOLになった。あの時就職せずに大学に行っていればこんなことにならなかったわよ、というのが母の口癖だった。
 いつからか母は酒に溺れるようになって家の中はいつもアルコール臭が充満していた。母が特に気に入っていたのはウイスキーだったが勧められて飲んだことがある。世の中にはこれほど不味い飲み物があるのかと驚いた。
 子供に酒を飲ませる癖に勉強やしつけに関して母はとても厳しかった。学校のテストで百点を取らなければどんなに真冬であろうと裸足のまま外に放置され一晩中家の中に入れてもらえなかった。足はだんだん動かなくなって真っ赤に染まった。足だけでなく耳や指先も。偶然通りかかった大家さんに見つかり事なきを得たこともある。食べるのが遅い、と詰られたときは煙草の火を手に押し付けられたり食事を床に捨てられあなたより犬の方が食べるのが早いのだから犬の真似をしなさいと言われたこともある。屈辱だ。食べるのが遅いことがどうして問題になるのだろうか。よく噛めば唾液が分泌されて消化にいいし栄養の吸収もよくなるのに。母に反論すると殴られるので私が母に反論することは滅多になかった。
 母が言った。
 あなた達さえいなければ私はとっくにあの人と別れて自由に生きられたのよ。あなた達がいるからいけないのよ。生まれたのが間違いなのよ。 
 父はよく母を殴った。その間私と弟は押し入れに隠れて殴られる心の準備をしていた。次は私達の番なのだから。母は殴るのでは飽き足らず風呂に連れて行き残り湯の中に私の顔を突っ込んで一分間ほど押さえつけるのだった。目をつぶった方がよいのか開いた方がよいのか迷った。開いたまま耐えられたのなら学校のプールの授業で役に立つかも知れない。息を止めることだってそうだ。
 いい子でいることは私にとって困難なことではなかった。先生の話をよく聞いて勉強を真面目にやること。おかげで先生から目を付けられることはなかった。母はしつこく私に東大に行くように説得した。だが私は勉強が好きではない。早く実家から出ることしか考えていなかった。
母の呪縛から逃れるため高校を卒業するとすぐに一人暮らしを始めた。派遣会社に登録して引越アシスタントの仕事に就いた。それは過酷だった。全身が筋肉痛になり疲れ果ててしまった。働く人は皆、語気が荒い。少しでもミスをしようものなら容赦なく罵倒される。人間が怖くなり仕事をやめた。就職して一年経った時だった。
遺品整理、警備員、郵便局の内勤、コンビニ店員と次々と職を替えた。どれも長くは続かなかった。今の自動車工場の仕事に就いたのは七か月前だ。寮費がかからないし三か月ごとの契約更新の度に手当てが出た。稼ぎがいいので続けられている。
 丁度自動車工場の仕事を始めた頃、ネットの掲示板に書き込みを始めた。職場の人間達への不満や悪口、家族への苛立ち、社会への苛立ちを思うがままに書き込んでいった。死体に群がるウジ虫のように、糞に群がる金バエのように私の書き込みに反応する人はあっという間に増えていった。遂には私のことを神様のように崇める連中まで出現し始めた。私の気分の高揚が止まることはない。ネットで呼びかけをすれば誰とでもセックスできる気がした。
 私はネットを通じて三人の女と連絡を取り実際に会ったがセックスまでたどり着くことはなかった。一人目の女は私の顔を見るなり
 「ブサイク。」
 と言い放ち去って行った。無性に私は死にたくなって今から死ぬ、と書き込みをした。考え直すように誰かが言ってくれるとばかり思っていた。しかし一向にそういう人が現れる気配はない。
 私はJR中央総武線のとある駅に向かった。駅名はよく覚えていない。私が電車を待っていると
 「人身事故が発生しました。しばらく運行を停止いたします。ご迷惑をおかけして大変申し訳ございません・・・ただいま人身事故により運転を見合わせております・・・」
 というアナウンスが流れた。出鼻をくじかれた思いがして自殺は未遂となった。
 二人目の女は驚くことに子供を連れてきた。旦那と二年前に離婚してたった一人で子供を育てているらしい。一人で育児するのも疲れたので一緒に子育てしてくれる人が必要だから再婚相手を探している。私はセックスすればそれでよかった。結婚は勘弁だ。
 そして三人目はというと好感触だった。女は背が低く肩まで髪を伸ばしている。頬はふっくらしていて優しい目をしている。なかなか可愛い。私と女はゲームセンターで楽しく遊んだ。私はクレーンゲームが得意で女に何個かぬいぐるみを取ってあげた。女は恥ずかしそうに微笑んだ。それからファミレスで夕飯を食べ色んなことを話し込んだ。この女が母だったらいいのに。顔が母に少しだけ似ている気がした。
 ファミレスを出た後、ラブホテルに行こうと誘った。女は了承して車に戻ると言った。私は煙草を吸って戻るから車で待っていてと言って煙草に火をつけた。ところが車に戻ってみると女は姿を消していた。いくら捜しても見つからない。女は闇の中へ一人、消えて行った。
 私のどこがそんなに頂けないだろうかと考えた。悶々とした気持ちを忘れるため風俗に行った。オーガズムを迎えた瞬間、姿を消した女の顔が思い浮かび全てが崩壊していくかのように思われた。
 店を出た直後、弟から着信があった。
 母が殺めた。
 自分自身を。
 睡眠薬を大量に飲み病院に運ばれてそのまま息絶えた。
 母の葬式の為、一週間会社を休んだ。母がいなくなっても自動車工場は稼働し続ける。私の体も稼働し続けている。私の歯と顎は食べ物をかみ砕いてくれ脳は指令を出してくれる。母がいなくなっても私の体は動き続ける。私の記憶の中には母がいない。子供の頃、母だと自分を名乗っていた人は狂った女でしかなかった。何を頼りにして何に縋って生きていけばいいのだろうか。誰かを道連れにし地獄の奥底まで落ちていくのがいいのか。
 葬式を終え寮に帰った。部屋のドアは重たくて開きにくい。電気を点けてもほの暗い。壁にはシミが無数にあって何ヶ所かは壁紙がはがれている。何度管理人に言っても対応してくれない。私はじっと座っていられなくなり一階にある大浴場へ行った。いつ行ってもここは黴臭い。風呂には髪の毛が浮かんでいる。脂も浮かんでいる。私は急に吐き気がしてお湯につからずシャワーで済ました。明日はまた工場に行って働く。母が死んだというのにまた日常に戻っていく。残酷な夜空。
 目覚めて時計を見ると出勤時間を三十分過ぎていた。私は半ば諦めの気持ちで工場へ向かった。幸い咎められることはなかった。
 ロボットは感情もなくキビキビとよく働く。彼らは遅刻しようがない。自分を作った人が死んだとしてもなんとも思わない。そんな同僚を見ると感心する。感情がないって便利だよな、と。
 一週間経つと完全に仕事を忘れるのかと思ったが案外私の体は忘れていなかった。一台のエンジンが私の元にやってくると私がしなければならない工程は二十項目ある。朝九時から夜七時まで私はその項目を繰り返していればいい。
 昼の休憩が終わった後、事務所に戻ってきてみると机の上に置いてあったはずのヘルメットがない。私の記憶違いのはずがない。確かに工場の入り口の脇の机に置いていたのだから。ここに親しくしている人間はいない。誰一人として名前が分からない。私はその場で立ち尽くした。
 「おい、テメェ、何突っ立ってんだよ。邪魔だからどけ!」
 誰かが背後から私の体を強く押しその勢いで転倒した。私は悔しさと情けなさで涙を流した。ここに私の居場所はない。いや、日本中世界中どこを探したってないのだ。あの男は私を厄介者扱いしている。私はここには必要のない虫けらだ。
 更衣室に行き作業着を脱ぎ捨て寮に帰った。私は自分の寮の中の家財道具を投げたり蹴飛ばしたりし滅茶苦茶にした。ここを出て行っても戻りたい場所はないがここにいるのは耐えられない。親が自殺した人間は同じように自殺する運命にあるのだ。だが独りで死ぬのは嫌だ。誰かを道連れにしてやる。社会が間違っていることを見せつけてやる。
 私は頭に浮かんだ計画を掲示板に書き込んだ。誰も阻止する者はいなかった。
 

 康一は礼服に身を包み洋介の五回忌会場へ向かった。美沙の姿もあった。事件に衝撃を受けた美沙は被害者の会合に顔を出し同席した康一と知り合ったのだ。
 「あ、どうも。」
 「あ、どうも・・・。」
 ぎこちなく挨拶を交わし何となく隣同士の席に座った。
 洋介の五回忌は淡々と進んでいった。康一は事件以来、度々不眠に悩まされてきた。あの時自分がもっとしっかり救命処置が出来ていたら洋介は助かったかもしれない。康一は自分自身を責めた。
 会が終わり美沙は康一に声を掛けた。
 「あ、あの・・・。この後、お時間ありませんか?一度ゆっくりお話ししたかったんです。」
 康一は少し驚いた様子だったが特段予定がなかったし美沙に何も悪い印象を持っていなかった。
 「いいですよ。」
 と返事をして二人は喫茶店に向かった。
 「時って無情ですよね。洋介さんが亡くなっても私達は平然と生きていられるのですから・・・」
 平然とではないが。
 「そうですよね。でもまぁ、仕方ありませんよ。」
 ウエイトレスがコーヒーを二つ運んできた。
 「もうお子さんは五歳でしたっけ?」
 「はい。元気過ぎて困っちゃいますよ。」
 康一は笑みを浮かべながら砂糖を少しばかりコーヒーの中に入れゆっくりかき混ぜた。
 「加害者の人・・・死刑になりそうですね。」
 康一の動きが一瞬止まった。
 「そうですね。そうなって欲しいですよ。」
 顔を少し歪めながら康一が答えた。
 「私、あの事件以来、世の中のことがよく分からないんです。元々分からなかったけれど、もっともっと分からなくなりまして。うまく呑み込めないというか整理がつかないというか。」
 美沙は不安気な表情を浮かべた。
 「それってどういうことですか?被害者でも被害者と親交があったわけでもないあなたがなぜ?」
 「私にもよく分かりません。しかし・・・」
 「あなたは通りすがりの者だったでしょ?」
 「えぇ、そうですけど・・・」
 「それなのにも関わらずあなたは見て見ぬふりをせず何とか助けようとした。現にあなたが処置した人は助かったわけでしょ。」
 「えぇ。」
 「それならあなたはもっと自分に自信を持つべきです。俺は親友を死なせたんです。あなたが苦しむ必要はない。苦しまなければならないのは俺の方なんです・・・」
 「でも洋介さんは致命傷で助からなかったでしょ?あなたがあなた自身を責めても何も変わらないんじゃないですか。」
 康一に返す言葉が見つからなかった。美沙が言う通り、いくら自分を責めても洋介が生き還ることはない。康一は冷水を一口飲み自分を落ち着かせた。
 「そうですよね。」
 「あ、私、なんだか言い過ぎてしまいました。ごめんなさい。ケーキでも食べましょうか。」
チーズケーキ、ショートケーキ、フルーツタルト、ガトーショコラ、モンブラン。ほろ苦いコーヒーにはどれも最適だ。
「そういえば康一さんは商社にお勤めですよね?」
「えぇ。営業をやっています。上司に叱られることが多いですが充実していますよ。」
「それはよかったです。」
「美沙さんはメイド喫茶やめたんですか?」 
「はい。私、あれ以来秋葉原に長い時間いることが出来なくなったんです。今は吉祥寺にある携帯ショップで働いています。でも神田明神にお参りするのが習慣なので秋葉原に全く行かないという訳ではないですけど。」
 「神頼みはきっとこういう時に効くんでしょうね。」
 「えぇ。だといいですけど。」
ケーキが運ばれてきた。ゆっくり味わい気持ちを落ち着かせ再び美沙が切り出した。
 「加害者の人と会ったことありますか?」  
 「いや、ないです。」 
 「私、一度面会に行ったんですが断られてしまいました。」
 「会いたかったんですか?目の前にいたら俺なら殺してしまうかもしれません。」
 「気持ちはわかりますが・・・ニュース見たりしていると加害者の人も母親に随分と酷いことされたみたいですよね。加害者だけど被害者でもあるんじゃないかって気もするんです。」
 「被害者?それはどう考えてもこっちじゃないですか。」
 美沙は言ってはいけないことを言ったような気がした。それだけではない。康一と会話していてもどこか独り言を言っているようで、なぜ私はこの人とお茶をしているのか、と美沙は思った。きちんとした会話になっていない。私は私の気持ちや考えをただ康一にぶつけているだけだ。だが康一と言葉を交わせば事件の衝撃を和らげられるのではないかという期待もあった。
 二人が噛み合わないことに康一も気が付いていた。美沙の言葉はどれも彼女の本心で純真な心を持っている気がした。それと同時に自分の心の頑固さになんだか美沙に対して申し訳ない気持ちがあった。俺の心は怒りで満ちている。その怒りから解放されたい。
 「さっきはちょっと強く言い過ぎました。すみません。」
 「いいえ。私もなんだか私の考えていることをただ康一さんにぶつけているだけだと思いました。すみません・・・」
 「いや、美沙さんが言っていることも分かる気がしますよ。」
 「加害者の人・・・死刑にしちゃっていいのでしょうか。人を殺したということは社会に対してマイナスなことをしたってことですよね。それもとてつもなくマイナスなことを。それならば思いっ切りプラスのことをやってもらってせめてゼロに戻してもらわなければいけないと思っているんです。ただ人が死ぬのはさらにマイナスになるだけじゃないかと思うんです。」
 「なるほど。美沙さんが言うマイナスとかプラスってどうやって測るんでしょうか。」
 「それは・・・。私にも分かりません。ただ死刑にすればそれでいいとは思えないだけかも知れません。」
 「単純には数値化できないし、してはいけないと思います。」
 美沙はしばらく考え込んだ。
 私が言うマイナスとかプラスって私の主観でしかないんだ。殺人がマイナスだってことは確かにそうだがそれを元に戻す方法はどこにもない。ということは加害者の人はどうやって罪を償うのか。それは私が考えるべきことなのだろうか。
 「間もなくラストオーダーの時間になります。追加のご注文はございますか?」
 美沙は何も確信や答えを得ることができなかった。それは康一もそうであった。しかし重い荷物を一つ降ろせた。少なくとも美沙はそう思った。
 喫茶店を出て二人はそれぞれの行きつく所へ歩き出した。それぞれの日常がまた始まっていく。
 美沙が何気無く空を見上げると七つの星が異様に光っていた。都会の霞んだ空にこれほど異様な光を見ることは滅多にない。美沙の足取りが少しだけ軽やかになった。

 

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