【映画のはなし(1)】強い思い込みが歪んだ現実を作る〜「怪物」(是枝裕和監督作品)
是枝さんが自分で脚本を書かない。
驚きだった。
多くの映画ファンがそうであるように、僕もまた是枝映画のファンだ。デビュー作以外、監督、脚本、編集をすべて手掛けてきた是枝さん。脚本を書かないのは珍しい。異色の映画になるだろう、そう思った。
早速、観に行った。
本当は公開初日に観に行きたかったけれどその日は仕事が長引いて公開から2日経っての鑑賞だった。
テンポよくストーリーが進んでいく。
会話で生じる、数々の違和感を提示し、その違和感は互いに対する無理解の連鎖を生む。
それが歪んだ現実を作っていく。
教師が児童に対して、体罰を働いたか働かなかったか?
うちの子は、学校でいじめられているのか?そうでないのか?
扱っている内容は、どんな人にも起こりうる、日常に潜む違和感で、それが映画という虚構の中にリアリティを生んでいる。
必要に応じて映画の中の時間軸を過去に戻し、事実らしきものを提示する。
事実は一つなのかもしれないけど、誰がそれを見ているか?によって事実が歪んでしまう。
それは、黒澤明監督作品「羅生門」の構成を彷彿とさせる。
登場人物はみな、自分が大切にしているものを守ろうとする。
母は息子を、教師は学校の名誉を、子供たちは自分の気持ちを。
そういった必死さと自分の安全ゾーンを脅かされてしまうかもしれないという気持ちの焦りが自分にとって都合のいい思い込みを作り出し、現実を歪んだ形で捉えてしまう。
是枝映画では珍しく、人を断罪する描写があった。そういった意味でこの映画は異色だと思う。
「本当のことなんて、どうだっていい。」
田中裕子演じる小学校の校長先生が言い放ったセリフだ。
確かにそうかもしれない。
人の数だけ現実があるし、人の数だけ視点がある。
必要なことは、本当のこと、事実を追求すること、よりは、自分以外の視点に立つこと、である気がする。それは言い換えれば、多様性を認め、受容することなのかもしれない。
しかしそれは、とんでもなく難しい。
自分のことを完全に理解することさえ難しいのに他者の視点に立った時に何が見えているのか?正確に捉えることはほぼ不可能ではないか。
年齢や生い立ち、好きなもの嫌いなもの、職業、性自認、どんな人と関わっているか?どういった趣味を持っているのか?普段、どんなことを考えているのかどういった世界観を持っているのか、正確に把握した上でなければそれは、「その人の視点に立った」とはいえない。
だから、人と人は衝突し、ぶつかり合う。誤解や無理解を生む。差別や偏見が生まれる。
問題を完全に解決することは難しいかもしれない。
しかし、映画というフィクションを通して、自分や現実、他者のことを様々な角度から捉える練習をすることは僕にもできる。
あの人は、あの時、ああいったけれど、それはこんな考えがあってのことかもしれない、と自分なりの視点を用意し、他者の視点を思いはせてみることは僕にもできる。
見事な脚本だった。
見事なロケーションだった。
見事な俳優たちの演技だった。
カンヌ受賞は当然だ。
そう感じた。
「怪物」
是枝裕和監督作品・2023年・125分
第76回カンヌ国際映画祭クィアパルム賞・脚本賞受賞作。