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短編小説 風の吐息

男は美術館の前で途方に暮れていた。

一月前から楽しみにしていたフランス絵画の展示会にわざわざ足を運んだのだが、突然の休館日。

「ネットで知らせしておいてくれよー」
という声と共にため息が肩から漏れた。

その日は完璧な一日だった。

朝から質素な食事を済ませ、早くに家を出る。
職場ではサッとメールをチェックし、少し時間が空くと本を読んだ。
正午を回るか回らないかで、
「よし、今日は仕事も少ないし、午後は有給を取って美術館に行こう」と決めた。

そう。その日は日曜日だったのだが、男は個人で事業を営んでいるため、土日関係なく仕事がある。仕事を切り上げてまで重い腰をあげた、フランス絵画の展示。どれほど胸踊っていた事だろう。

「今日は美術館に行くので、午後は会社を空けますね!」

男は勢い良く、部下の社員に伝えたのだが、仕事の虫である男がそんな事を言うのは珍しく、部下も全員目を丸くしていた。

足取りは軽かった。

スーツからリラックス出来る服装に着替え、颯爽と事務所のドアを擦り抜けた。
暖かな陽気の三月中旬。
三寒四温でもその日は特段柔らかい光に包まれていた。

駅に向かう途中に大きな橋がある。
海へと繋がる大きな川に掛かる橋だ。
ほとりには小さな公園があり、サックス奏者が昼を夜に彩る音を響かせていた。

なんて素敵な日なんだ。

柔らかい光に包まれ煌く水面。
頭に響くサックスの音色。
うっとりとした表情で聞き入る公園の住人。
静と動が交差する瞬間。

過剰なまでの日々を送っていた男には、その景色だけで、充分すぎる程の満ち足りた芸術を感じた。

しかし男にはフランス絵画が控えている。

少しだけ橋の真ん中でその日常の芸術を堪能した後、足早に駅へと歩みを進めた。

ヘッドホンは再び軽やかなピアノアンサンブルを奏で始めた。

駅から美術館までは約45分掛かる。
往復約1時間半。
好きな本は当然ポケットに忍ばせてあった。

松下幸之助述 PHP研究所発
「リーダーになる人に知っておいてほしいこと」
人として当たり前の内容ばかりだが、
特に有名な「公明正大」や、「会社は社会の公器」「自修自得」「融通無碍」など、まだ稚拙な経営者である男にとっては余りある程、言語化された学びに直結する事ばかりなのだ。

男は電車の片隅でひっそりと鞄から本を取り出した。
ブックカバーはしない派である。
読書紀行の旅の鐘が再び警鐘を鳴らした。

「日本を今より一歩前に進めるにはどうしたら良いものか。。」

読書をし、美術館で感性を磨き、常日頃から自己研鑽を忘れない。
己に厳しい約束を課している男は、まだ若い。

しかし、「自らが100歩進むより、100人が1歩前に進む事の方が大事だ」という日本電産 永守重信氏の教えを、頭の片隅にいつも留めている。

電車は何度も滑走を繰り返し目的地へ男を運ぶ。

実に滑らかな滑走だ。

程なくして終着地に降り立った。
美術館は小高い丘の上にあり、駅からは徒歩で20分。鮮やかな碧の佇まいである。

ふわりと地上降り立ったスニーカーは、すぐに躍動の中に身を投じた。

周囲を美しい山々に囲まれたそこには、昔から変わらぬ日本の自然の美しさを遺している。

訪春を今か今かと待ち望んでいた木々や動物たちの生命の輝きを、生命の偉大さを、生命の息吹きを、五感でしっかりと感じながら緑道のトンネルを男は着実に進んだ。

美術館の入口に繋がる玄関には、壮大な長さのエスカレーターがある。
その日照明はやや暗い気がした。

日本の建築技術の素晴らしさに感動しながら、男はゆっくりとエスカレーターを踏みしめる。
徐々に近づくフランス絵画との対面の瞬間に、胸の高鳴りを抑えられないでいた。

クロード=ジョセフ・ヴェルネ
ニコラ・プッサン
ジャン=アントワーヌ・ヴァトー
エリザベト=ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン

17世紀18世紀のフランス絵画史において、欠かす事の出来ない画家達が一堂に会する貴重な展示である。

中でも、自然美に魅せられている男は、ヴェルネの[海・日没]を生で拝見できるのを楽しみにしていた。また、ルブランの[ポリニャック公爵夫人]は勿論の事である。

間も無く入口に近づくに連れて、男の歩速は落ち着きを取り戻していた。
ゆっくりと絵画との時間を楽しむためだ。

エスカレーターを抜けると入口までの間に広い公園がある。枝垂れ桜が芽吹く公園だ。今は三月中旬。4分咲き、といったところだろうか。

淑やかに桜を眺め流水の音を聞く。
まるで自然と一体となったかの様に、木々の音や鳥の囀り、虫の羽音を感じる。
心が洗われていくのが分かる。

「なんて素敵な日なんだ。」

改めて男は今日という日に感謝していた。

なぜかその空間には男以外の人が居合わせなかった。完全な孤独。自然との調和。完全な無。

激動の日々から孤独を浴していた男は、その時間が愛おしくてたまらなくなった。

一頻りのヨガを行いマインドセットを高めた後で、ようやく男は入口へと歩みを進めた。

入口のドアに大きな文字で貼り紙が書いてあった。

本日休館

休館なのである。仕様がない。

一瞬の絶望の後、ため息が漏れた。

その刹那、穏やかな公園に突風が吹く。

自然をこよなく愛する男への、
風の吐息だったのだろう。

そんな事を考えながら、男は行きつけの小さいバーのカウンターの隅で、葉巻を燻らせながらニコラシカを傾けていた。

豊潤なダークラムのニコラシカである。

二杯目に手を出した。

バーテンダーは慎ましやかな笑顔で、なぜか香りの強いキレのあるグラッパのニコラシカを出してきた。

当然どの様に飲んでも美味しい訳がない。

「なんて素敵な日なんだ。」

男は小さく頷いた。

人生とは、自分が思った事が上手くいかないことの方が多い。
でもそんな人生の方が、平凡な人生の何倍も生き甲斐があり、生きる価値がある。

そんな人生論を考えながら、お世辞にも美味いとは言えないニコラシカを一気に喉に流し込んだ。

耳の中で再び、風の吐息が呟いた。

#読書
#未来読書研究所







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