積極的安楽死(Positive Euthanasia )を考える
安楽死を望むALS患者への薬物投与で、医師2人が嘱託殺人の疑いで逮捕されたとの報道。
スイスやカナダ、オランダなどは「尊厳死」としての「安楽死」が社会に受け入れられている国もあります。
日本では、投薬などによって死期を早める「積極的安楽死」は国内では認められていませんが、
「耐えがたい苦痛」
「死期が迫っている」
「苦痛の除去、緩和の方法を尽くし他に代替手段がない」
「患者本人の意思表示がある」
など四つの要件を満たせば違法性は免れるとの判例があります。
ケースとしては、人工呼吸を外す等により命を断つような消極的安楽死です。
ただ、今回のケースはこの要件には該当しないとの判断から、患者本人からの強い要望があった場合でも!「薬物投与」による断命行為が「嘱託殺人」とされての逮捕とのこと。
この報道を見ながら、「尊厳死」と「安楽死」について考えさせられました。
自分の命は『自己管理責任』を持ちきることができないのでしょうか。
人間は誰もが「生まれる」事の自己選択は出来ません。
「生」と「命」を授けられた人間には、生きる義務と責任である「尊厳」が生まれます。
自分はなぜ生まれてきたのか⁉︎
なぜ生きるのか⁉︎
生きる目的は⁉︎
そして、いかに「死」を迎えるのか⁉︎
とても哲学的ではありますが、全ての人間に共通する命題です。
生物としての人間には寿命があります。
人生100年時代の今、近未来にはセンテナリアンが普通の社会となるかもしれませんが、全ての人は、いつかは生体寿命を迎え旅立ちます。
寿命を全うする人生は理想的ですが、現実は私たち人間の「死」の迎え方は多様です。
病魔や事故等による断命、そして人類歴史で繰り返されてきた戦争や迫害による絶命、飢饉等による餓死、様々な精神的負荷等による自死..そして、疫病による運命的な不運死!
人命の重さは何にも代え難く「絶対価値」です。
生きていること、そして存在していること(being )自体が絶対価値であるはずです。
コロナ禍はその「当たり前意識」を人類にリマインドさせていますが、国民や社会が人命責任を負える「限度と限界のジレンマ」を感じているのは私だけではないはずです。
ウィルスによる「命リスク」と、生計・精神面での「存命リスク」、命は様々なリスクに晒されていますが、最後は、自身の行動の自重、自粛、自制と運不運に左右されるものの、自己責任に帰着せざるを得ない面もあります。
「尊厳死」の自己選択権があっても良いのでは!との考え方もあります。
いや、何があっても「生きる」こと、「生き続ける」こと、そして「生かされ続ける」事が人間としてあるべき道!なのでしょうか。
このテーマは、なかなかの難題ですよね。
私自身は、人生の終え方には「自己責任」、あるいは近親者の意志に委ねる(状況次第ですが...植物化してしまった場合等)選択肢があっても良いのではの思います。
皆さんはどのように思われますか。
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