矢ガモ
みなさんは矢ガモのことを覚えておられますか?
先日「信じるとは」でも、以前聞いた法話をもとに書いたが、この矢ガモの話も、法話の中で触れられ、心に残った。
この事件は1993年1月であったというから、30年以上の月日が経ったが、まだよく覚えている。ああ、今頃の季節であったか。以下のリンクのウィキペディアの内容も興味深い。当時の報道に携わった方々の話やその後の話などがある。
さて、法話の中でどのようにこの話が引用されたかを説明したいが、そもそもこの矢ガモ事件を知らない方もおられるだろうから、簡単に説明する。
矢ガモ事件
上記のリンクの内容そのままだが、引用すると次のような事件である。
矢の刺さった状態のカモが発見されて、あまりに痛々しく、それをいかにして救うかという騒ぎであった。このことを知らない人は驚くかもしれないが、本当に大変な騒ぎだった。連日、現場からの生放送が続いた。
引用にあるように、発見から救出まで実に20日という時間がかかっている。何度も捕まえようとするチャレンジがあり、その都度、カモは逃げて捕まえられない。その様子が中継された。助けようとして近づくと、カモは捕まるまいとして逃げる。あー、助けようとしているのに!という思いの中で、失敗を皆で残念に思った。
救う側、救われる側
この矢ガモ事件については、さまざまな見方ができるので、これから話す話についても反論というか、そうじゃないのでは?ということもあるかもしれないが、私が法話で聞いて、なるほどなと思った点を述べたい。
この矢の刺さったカモはなぜ逃げるのだろうか?捕まえようとしている人間は、そのカモから矢を抜いて、治療し、そして元のカモの群れに戻してあげたいと願う人々である。捕まった方が良いに決まっている。
しかし、カモはそのことを知らない。救いの手が、今まさに差し伸べられているのに、それに気がつくことなく逃げようとする。救いの手とは思ってもいないだろう。
どうしても救いたいという人間の心と、それを知らないカモ。何度も何度も救出作戦が実行される。そして最終的に捕まり、治療され、群れに戻される。
法話では、この事件の矢ガモが我々であって、救おうとする存在が阿弥陀仏として語られた。我々は煩悩という矢に撃ち抜かれている存在であり、その煩悩の矢を取り除き、治療して仏として極楽浄土に生まれさせたいと願い、阿弥陀仏の方から我々に働かれる(よろしければ「阿弥陀仏のお救いからベクトルを学ぶ?」もどうぞ)。ただ、その願い、働きがわからず、逃げるまたはそのことに気がつきもしない我々が、まさに逃げ回る矢ガモであるということであった。
ただ、これは私の記憶と解釈であって、実際にはもっと誤解なくお話になったと思うが、私の能力の限界である。
カモはなぜ逃げるのだろう?再考
カモは周りに近づいてくる人間たちが自分を救おうと思っているなんてことは知らない。一方で、矢を自分向けて打ってきた人間を知っている。近づいてくる人間は全て自分を傷つけようとする存在に思ったのかもしれない。そうなると逃げ続ける。捕まってたまるか!
さて、我々は阿弥陀仏から何か痛い目に遭わされたことなどもちろんない。ならば、なぜその救いを素直に受け入れられないのか?
「信じるとは」にも書いたが、そもそも我々は、阿弥陀仏の救いをありがたくいただくという準備ができていない。なぜ救われなければならないのか?なぜ、私は仏になりたいのか?その前提がない。助けてと頼んでもいないのに、なぜ助けようとするのか、余計なお世話だとすら思うかもしれない。
そういう意味では、カモの話と全く一致する論理ではないように思う。カモは単に、その生活の中で人は避けるべきと認識し、それを実行している。一方で、阿弥陀仏に救われるというのは我々が死ぬ時である。そんな未来の自分が経験してないことをいかにして信じろというのか?これが一般的な認識であろうか。
人間はどうだろうか?
人間は「救われる」ことよりも、今の生活や自我を優先してしまう。助けるといわれても、自分が本当に「助けられる」必要があるのか実感できない。このようなことであろうか?
なぜ私が助けてもらわないといけないのか?
ここまで書いて私は気がついた。私もそうだが、おそらく多くの人は、このなんとか理解しようということを考えて、あれやこれや考えてしまって、信心からおそらく遠ざかる。
自己反省
上の記述は中途半端になってしまったが、気がついてしまったので仕方ない。
そう、矢ガモの話は、仏様の話として聞くべきであって、いや、カモはそんなふうには思ってないだろうとか、全く本来この例で示そうとしていることとは関係ないのに、そこに目がいってしまう。これが、信心から自らを遠ざけてしまうのだ。
そう、カモは逃げてしまった。それは、助けたいという心がわからないからだ。我々も、阿弥陀仏の救いを本当に信じ、それを頼ることができているだろうか?逃げていないか?それを、自らに問いかけることこそ、この法話の意図であろう。
私は、そもそも理屈っぽい人間である。こういう人間は、信心というものになかなか近づけないんじゃなかろうか。しかも、そういうある種の「屁理屈」によって、自分が賢いように思っている気がする。なんとも愚かじゃないか。
そう、じいちゃんが書いていた。ただただ念仏。この境地がまさに大事なのだろう。
さきほど、
「この矢ガモ事件については、さまざまな見方ができるので、これから話す話についても反論というか、そうじゃないのでは?ということもあるかもしれないが、私が法話で聞いて、なるほどなと思った点を述べたい。」
と書いた。そう、多面的な見方がある。それは良いことである。今の世の中、多面的な見方ができる人が増えているが、一方で、ただの揚げ足取りでは?という見方も多い。さまざま批判的に見ることは、一般的に良いことだ。研究者でもある私は、いつも批判的に物事を見るようにしている。ただ、信心ということになると、この多面的な見方、批判的な味方が邪魔をする。素直に受け入れるということが、全くもってできないのだ。
そう。ただただ念仏。それだけ。最終的には、この感覚になるのかもしれない。残念ながら、私はまだ程遠いようだ。
南無阿弥陀仏