僧侶の傍ら根付を彫る

浄土真宗大谷派僧侶見習い。 小さなお寺で、こりこり木彫根付を彫りつつ 家事と育児に慌て…

僧侶の傍ら根付を彫る

浄土真宗大谷派僧侶見習い。 小さなお寺で、こりこり木彫根付を彫りつつ 家事と育児に慌てふためく日々。 【YouTube】Daishin′s netsuke 【Instagram】@netsuke_daishin

最近の記事

風邪のワルツ

 終わりなき風邪の家庭内リレーは小気味良く人から人へ伝染していく。最初に犠牲になった私はあいも変わらず治りが遅い。もちろん他の人も遅い。しんどいので早く元気になりたいと思います。 さて、人は余計な事を考えるのが好きです。勝手に妄想して決めつけ、それに腹を立てるなんてコンボはお手のものです。自分もそうですし、きっと周りもそうだろうと決めつけています。 人付き合いもほどほどにしないとなとたまに思います。勝手な期待を自分はするし、相手もしてるだろうと思います。別の他人からの嘘が本

    • 彫ったり、寝たり、あたふたしたり。

       根付に使えるサイズにと、少し大きめに彫った落花生。シンプル。  先日久しぶりに京都に行きましたが、海外の方がすごく多いですね。7月は329万人の方が日本に来たそうです。単月では過去最高と。たしか、8月も8月としては記録更新とか。いやはや5月に通り過ぎた浅草も凄い数の人でした。 見慣れ過ぎてさして何も感じませんが、寺社仏閣は強いのでしょうね。 良くも悪くも慣れていく人生は時折立ち止まる事も必要かもしれません。笑。  そういや木彫りの機械が調子悪くて解体したらパーツ見失った

      • 失敗は辛いけど、無駄には出来ないし、無駄でもないよきっと。

        私の様な不器用な人間は感覚的に彫る事も不器用です。しっかりした製図をするわけでもなく、思いのまま彫ります。しかし、多くの失敗を重ねます。今もです。そしてこの先もです。常に失敗と隣り合わせで生きています。しかし、失敗は発見です。失敗しなければ学ばない、と昔から言われている言葉があります。身に備わる。だから失敗しても身に刻まれた分、ひとは学ぶのだと思います。 そう思わなければ、ずっと前に倒れています笑 さて、この木彫りどうなるか。 A clumsy person like m

        • 思っているより足が疲れました笑

          昨日は人生初めて他のお寺で2時間近くのお話をする機会を頂きました。実質2回目ですが勢いだけで突き抜けた感。ホワイトボードマーカーの字も下手だし、気温も相まって熱で話すような感じになったなと振り返っています。 彫刻の方はあまり進んでいませんが、今彫っている根付は調整段階のものが多いのでもう一点追加彫刻しようかななんて思ってたり。

          「対価」って良くないですな。「施し」と考えるとほんの少し柔らかくなるかしら。でも人間の施しはやはり根底に「対価」を求める心が根付いてますな。 汗だくになりながら台風前に少しだけ蚊バリアによって結界を張り、草を非情にむしりながらふと思う。矛盾の存在。 3センチちょいの「竹に蝉」は夏が終わろうとしている最中に完成。が、蝉は好きな題材なので季節がどうなろうが彫ろうかと思う時代。生き死にをよくよく見せてもらっております。蝉。

          成長(したと思いたい)

          今日は気持ち少し涼しい気がします。今のところ。 蝉がある程度形になってきたので仕上げ中。オロチはまだ色々いじるところが多そうです。 空いた時間に少しずつ彫刻する日々。 お盆も落ち着き日常にバタバタする日々再開です。 そういえば毎朝起きて顔を洗うんですが、その時冷蔵庫から警告音が鳴っているのに気がつきました。製氷機の蓋が開いていたようです。 真っ先に「誰だよ開けっぱなしにしたのは」と思いました。自分の可能性を1ミリも疑わないところがポイなぁと思いました。とまぁそんな身に気がつ

          成長(したと思いたい)

          無明長夜

          「過去は変わらないが、過去の意味は変えられる」 何かの本に書いてあった印象的な言葉。何事も因縁果なので今の自分がどうあるかによって過去がそこに至る説明書になるんでしょうかな。果より因に。  毎度毎度そこらじゅうに着火点を見つけては進んで火をつけに行っている意識はあります。瞋恚(怒り)の煩悩は最もヤバいと言う方もいましたが、こんなストレスになる事をわざわざ外灯に群がる羽虫の如く着火行動する自分に毎度驚かされます。しんどい。それは全くもって揺るぎない事実。良い事なんて何一つない

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           JR名古屋高島屋さんで開催される根付展に龍の根付が出されます。龍を彫るのは2回目の時の作品です。常に進化しているので今とはまた雰囲気の違う作品ですが3.4㎝にまとめたので直で見ると写真より小ささを、感じるかと思います。機会があれば進化の過程をご覧ください。 来年は4月半ばにパラミタミュージアムさんでも第4回になる根付展の予定です。

          我が身に真実なし

          最近は「茸と蛙」を彫っています。 今は裏側を彫っています。 表と裏。表裏は一体。  そうそう、個人的な問題として「方便」にどう向き合うかという事は非常に大きな事として私にあります。 方便だろうが真実だろうが私自身が「信じる」というところは非常に険しくやもすると「思考放棄」になりかねません。 しかしなぜ「方便」があるのか。「方便」とは何か。 サンスクリット語でウパーヤといい、「到達する」「近づく」「たくみなはかりごと」などという意味だと記憶しています。 阿弥陀如来は方便法

          難中ノ難

           最近はトノサマガエルを彫りたいと思いまして。キノコと蛙をちまちま彫っています。  先日院号法名の手続きで別院に行った際、聖典第二版を購入したものの、インデックスシール貼るならカバーも買っときゃ良かったなと帰路の途中思いましたので今度行った機会に忘れないようにしたいと思います。 何の因果がそこで同級生に会いまして、子供が産まれていた事を知って驚いたものの別に腰が抜ける程でもなく、ぁあそうなのかと感慨深いものを感じた次第です。 驚くとか悲しいとか腹が立つとか大きく感情が動く時

          今宵もまた過ぎゆく

          不安というものは常に付きまとう。それは苦の根源。ゴータマが見出した真理をうんと頷けない私の叫び。世は事実しかなく、それ以外は何もない。しかし、都合の良い答えが欲しい私は彷徨う。 だがしかし眼前の事実は揺らぐことなく、ただそこにある。 ただ、ある。 真実は常に淡々としている。そこに優しさや誤魔化しはない。故に、優しさや誤魔化しを求める私はその厳しさに目を背けたくなる。 故に、方便を必要とする。梵語でウパーヤ。到達する、近づくという意味を持つ。 方便は優しい。 巧みなはかりご

          今宵もまた過ぎゆく

          人は不安なのだろう

           不安を隠すため人は何かを頼る。自分、金、力、生活。悪魔化された宗教といえる。どれも絶対的に確かなものでは無くすぐ転ぶ。生み出した執着は自らを知らず知らずに蝕んでいく。  近代化とともに人間は世界の一部から世界を見る立ち位置に。それは世界から離れた視点であり、より自己に潜む王様性が肩をまわす。 とかなんとか考えながら買い物につきあい、その後、昼食時間に偏食の子供にやきもきする昼のひととき。 今日は早朝から2件の用事を済ませ、汗だくになったので着替えてのお買い物。 何も考えず焚

          人は不安なのだろう

           自分の場合、彫刻は考えすぎるとよくないので思うがまま進める。靴だけ用意してあとはひたすら進む。なるようになるし、なるようにしかならない。そんな感覚で、ある意味とても不器用な歩み。正解はあるようで無く、無いようにみえてある…こともなく「ある」とか「ない」とかはない。 昨日今日と連日早朝に別院の講座に足を運びつつ、蝉の音に夏を感じる日々。まだ5時過ぎは涼しくもそれ以外は夏の様相。

          木彫根付展もあと2日

           ここで本物の根付が見れる!買える!という認知がある程度出来てたのか思っているより売れて来た事に感動。パラミタミュージアム一階小ギャラリー「森羅万掌」木彫根付展。30日までなのであっという間にもう直ぐ終わります。 根付好きなら遠方からでも来る価値のある作品たちだと思います。作家が売れなければ工芸も消えます。それもまた諸行無常ではありますが、仲間が消えるのは辛いので残り会期も何か売れるとありがたいですね。  さて、彫刻は自分との対話、そして他者との関わりで成長していくと感じま

          木彫根付展もあと2日

          展示残り2日!!

           今日は割と雨。集大成、現時点での精一杯を集めた木彫根付展もあと2日。今日は三線の仲間が来てくれたり、お寺で根付仲間がきてくれたり、新聞の記事きっかけで昨日見に来て今日もう一度来て根付を買ってくださった方と談笑したりと濃い数時間を過ごし、昼からは用事のため帰宅。もともと行き先の決まっている根付を合わせると全メンバーの根付が売れた事になり、とてもありがたい展示になっています。 来年も胸を張って開催できるのではないかと。 根付と求める人が出遇えば天気なんて関係ない。改めてそう思う

          泥に咲く花のように

           今日は午前中に同じ地区のお寺の満中陰を終えて、昼からはギャラリーに足を運びました。  知り合いも来てくれて、作品も満遍なく売れつつありがたい日々。振り返るとモヤモヤとした根付人生を歩んできましたが「森羅万掌」木彫展を始めて3年目、初めて充実してきました。顔を向けてこなかった仏道に触れ始めたのも良かったと思います。自身を見る事ができるようになりました。とはいえ煩悩具足ゆえの身の事実を感じる事は多いですが、それもまた仏法に照らされた結果でありましょう。

          ¥150

          泥に咲く花のように

          ¥150