紆余曲折な人生その3(いっっっっちばん濃いです)
こんばんは。
一日空きましたが、今日はその3です。
前回までのあらすじですが、
何事も冴えない、続かない小学生だった僕の絵がパキスタンの展覧会で何故か認められたことをきっかけに漫画家を目指しますが、同時にもう一つ不器用ながらも足だけは速かったため、ちやほやされる為に陸上部に入ることを決意。しかし中学に上がると陸上部は廃部になっており、母の知り合いづてで知った陸上部超強豪校I中の部活の練習に他校の僕がいきなり参加するも、先輩からのいじめに遭い、早くも辞めたいと母に告げる。
母から与えられた"辞める条件"は、
「何か一つでもできないことができるようになったら辞めてもいい」
というものだった。
一年生の中で僕だけができなかった、"巨大鉄棒での懸垂坂がり"を目標に設定し、毎日毎日豆を潰しながら練習に励んだ。
そして、先輩の「できるようになっとぅやん」の褒め言葉をきっかけに、僕はI中に転校して本気で陸上をやりたいと母にお願いしたのであった。
4.中学時代(後半)
I中監督は、とんでもない人でした。
僕が人生で出会った人の中で最も濃く、素敵な人物です。
容姿は、スキンヘッドでサングラス、アロハシャツに下駄を履いていて、眉毛は無し。車はベルファイアに乗っていたのですが、なんと警察が使うマイク内蔵です。
生徒と陸上のためにはなんでもする人でした。
僕たち陸上部は、まるで軍隊でした。
朝練習は6時1分スタート(人によっては5時半スタート、僕は一人4時半スタート)、ベンチプレスをやったり、タイヤを引いて砂浜を走ったり、合宿では上半身裸で叫びながらダッシュ。
誰かが何かを忘れたり、遅刻があると連帯責任で、腕立て伏せや手押し車をします。(足を持ってもらって手だけで歩行するやつ)
記憶にある中で最も長かった手押し車の距離は、一人2km(砂利)です。
一時は体に砂の入ったチューブを常に巻いており、僕はそれを風呂以外でずっとしており、美容院で悲鳴が飛び交ったこともありました。
そんな僕達I中のことを、人は皆こう呼びました。
「野獣一族」
野獣一族は試合になると駅から走って競技場に向かい、「野獣一族」の旗を持って、縦横無尽に駆け回るのです。
そんなめちゃくちゃな中学生活なのですが、僕にはその時間が楽しくて仕方ありませんでした。
もちろんきつくて苦しい時もあったのですが、顧問の先生の辞書にはこうありました。
「苦痛 読み仮名 かいかん」
僕はすっかり野獣一族になっていったのです。
そんな僕がやりたかった種目は、華の100m。
しかし、プログラムには何故か、200m、400mの文字が。
2年生秋になった僕は、成長していたとはいえ、始めてでた400mのタイムは、60秒。
地区大会でも予選落ちです。
しかし、先生は僕に、こう言い続けました。
「お前は49秒を出して日本一になるんだ」
60秒叩き出して地区大会で予選落ちの僕が、日本一??
そんなバカなwwwwwww
そう、思い続けていました。
しかし、3年生になり、毎試合出るごとに僕のタイムはほぼちょうど1秒ずつ更新しており、
全国大会を決めるための大会の一つ前の大会で、僕は400mの三重県チャンピオンになっていました。
当時のタイムは51秒97。
あくまで計算上の話ですが、もし先生の言うことが本当になったら、
次の全国大会を決める大会で50秒台。
そして、東海大会、全国大会と続いて、一試合余裕を持って49秒を出す計算です。
先生はイメージトレーニングをすることをすごく大事にする人でした。
知らぬ間に、先生の日本一になるという言葉を本気で鵜呑みにし、実現しようとしていたのです。
そんな矢先のことでした。
僕は腰痛に悩まされ、鍼治療に通いながら練習していました。
全国を決める大会当日が最も症状が悪く、走るギリギリまで先生に診てもらっているくらいでした。
腰痛を抱えながらも、僕は決死の根性で200mを22秒60で走り3位に入賞しました。(のちにこの記録が全国ランキング10位になり、賞状を貰います)
そして、問題の400mは、フルパワーで52秒07?を予選で出して全国大会が内定し、そのまま準決勝落ち、病院にすぐに向かいました。
その日の鍼治療の帰り、僕は肺に違和感を覚えました。
すぐさま大きな病院に入院し、結果は、針が肺に刺さってしまい、肺気胸になってしまいます。
当然東海大会は出場できず、毎晩悔しくて泣きながらベッドで過ごしました。
先生は、毎日病院にきて、まだ僕に、「お前は日本一になる」と言ってくれました。
全国大会約1、2週間前、僕は退院し、毎日ウォーキングをしながらイメージトレーニングをしました。
400mという競技はトラック種目で最も過酷と言われており、肺に負担がかかりすぎました。
試合当日を迎えます。
全国大会は鳥取県で行われました。
中学1年生の時に、両親が離婚して僕は母と一緒に暮らしていたのですが、なんと父が東京から駆けつけてくれたのです。
それを知ったのは試合が終わって早々に帰っている時でした。
試合結果は、200m、400mともに予選落ち。
しかし、400mのタイムはその後の生涯のベストタイムとなりました。
こうして、野獣一族、中学生活の幕が閉じるのです。
5.高校時代
陸上の成績で推薦入学した高等専門学校。
なんと、ここはびっくりするくらい記憶が定かではないのです。
暗黒時代でした。
中学で成長しすぎた僕は、高校時代、短距離種目において一切日の目を浴びることがなくなります。
中学県チャンピオンとして知られていた僕はもうどこにもおらず、毎日どうサボるか、どうやめるかしか考えていませんでした。
この原因ははっきりとわかっています。
中学校の先生は、厳しいながらも、その気にさせるのがうまかったので、僕はその気になってどんどん練習に励みました。(やがて365日4時半から朝練を始めるほどに)
しかし、高校の先生は、もっと先をみている先生で、
どんなに苦しくても、とにかく自分で這い上がるしかないんだ、ということを教えてくれた先生でした。
しかし反比例するように僕はダメになっていき、毎日先生が出張に行くことを願って駐車場に車があるか見にいっていたのです。
当時の僕は自分が野獣一族だから、高校の先生が僕をダメにしたと本気で思っていました。
当然、そうではなかったのです。
その気にしてくれる人がいたから、僕は強くあれただけだった。
僕は自らを野獣一族だと思っていました。
しかし、本当は野獣一族の衣装を纏った、ボールを追いかけることに疑問を持っていたあの頃の僕のままだったのです。
高校の3年間はそれを知り、社会に出るための準備をさせてくれた期間だったのです。
そして時は流れ、僕は教員を目指すべく、これまた陸上の推薦枠で教育大学に進学することになるのです!!!!
んん???まだ音楽のおの字もないけど????????という感じですが、笑
次回!!!最終回です!!!!!!
このバカみたいな話にはたして需要はあるのかわかりませんが、、、、笑笑笑笑
乞うご期待!!!!