紆余曲折な人生その4
こんばんは。
僕が生まれてから音楽を始めて上京するまでをここまで3回分けて綴っててきましたが、今日でついに最終回です。
タイトルは紆余曲折な人生ですが、今回は出来事のインパクト的にはそこまで紆余曲折ではないかもしれません。
しかし、僕の精神的な面や、人生の流れ的にはここもかなりの紆余曲折です。笑
前回までのあらすじ
当時足が速かったことと、チヤホヤされるためだけに興味を持った陸上競技でしたが、色々あってついに陸上競技を本気でやるために突然強豪校への転校を決意する。(前回書き忘れましたがこのタイミングで陸上を本気でやるために絵の教室を辞めます)
転校した先の強豪校I中学校陸上部での3年間は何もかもとんでもなくて、体にチューブを巻いて生活したり、朝練は4時半に行ったり、小学校から上りたての中1も高校生間近の3年生も関係なく、平等に罰ゲームがあったり(手押し車平均300m、最長2キロ)、合宿では電車を降りたら全員タイヤと自分の荷物持って、宿舎まで(5キロ)走ったり、、等、上げ出したらキリがない。
そんな"野獣一族"と呼ばれたI中陸上部でみるみる成長していきついに県チャンピオンまで上りつめ、目標だった日本一を本格的に目指そうと奮闘するも腰痛に悩まされ、ついにはその時の鍼治療の鍼が肺に刺さってしまい、入院生活を送る。
退院後に決死の覚悟で挑んだ全国大会での400mの記録が生涯ベスト記録になるも、予選敗退となってしまう。
その後高校でリベンジを夢見て入学するも、顧問の愛がわからず、腐る。
自らを野獣一族の一員なのだと思い込んでいたが、実際はその気にさせてくれるI中陸上部の先生がいたから強くいられただけであって、厳しい世界で一人で戦っていく勇気も力もまだなかったのだと痛感させられる。
二人の対照的な顧問の影響で教員を目指し、教育大学に入学する。
6. 大学生時代
陸上の推薦で三重県の私立教育大学に進学しました。
陸上をのびのびやりながら中学校教員になって陸上を教えたい、もしくは数年間小学校で務めた末に中学校で指導したいと思っていました。
高校時代の苦悩は嘘だったかのように、タイムが少しづつ戻ってきました。
高校時代のように張り詰めた毎日ではなかったので、肩の力が抜けたのだと思います。
そんな矢先、高校時代に痛めた左足の怪我が悪化し、全治一年と言われてしまいます。
アルバイトをしながら治療に専念し2年生秋頃から復活!というのがプランだったのですが、、、
僕の中で、陸上を社会人になっても続けるという気持ちがないことに気づいてしまいました。
一年間棒に振るってあと2年半、正確には3年生秋で引退だから一年半ほど。
それのためにバイトと治療に明け暮れるのか、、と考えてしまう自分がいました。
でも僕は陸上で大学に入った以上やめるわけにはいかないし、中学校を転校してまで陸上をさせてもらったのに申し訳ない気持ちがあり、どうにもできなかったのです。
母親に相談すると、
「あんたの人生やからあんたのやりたいことをやりな」
と言ってくれていました。
しかし、やりたいこと、、といっても、今更漫画家とも思わないし、だいたい7年やってきたら陸上を辞めて体を動かさなくなることが全く想像できず、僕の存在価値がなくなってしまうのではないかという不安がありました。
あとは、先生に辞めることを切り出すなんて無理だと思っていました。
心のどこかで、辞めることが逃げだと思っていたからです。
だから高校の時も、腐っていても陸上を辞められませんでした。
そんな中、大学入学してすぐにたまたま話しかけて知り合った友人がギターを弾いていました。
僕はカラオケがすきだったので、友達のギターの伴奏に合わせて歌いました。
場所は、大学の芝生広場です。
芝生広場には結構な数の学生がいたのですが、
なんとそこでたくさんの拍手が鳴り響いたのです。
その瞬間、僕は初めて陸上を始めた頃のことを思い出しました。
元々は、ちやほやされたくてはじてたのが陸上でした。
新しい恋をしたような気分でした。
それからというもの、友達のギターに合わせて歌うことが楽しくてたまらなくて、部室や友達の家、路上や地域のイベントで歌いました。
僕は陸上しか知らなかったけど、こんなにも楽しいものがあるのだとその時に知りました。
しかし、楽しい時間も束の間。
気づかないようにしていたのですが、その友人のギターのリズムがどうも良くなく、全く歌と合わないのです。
我の強い僕はなにごともはっきり言ってしまう悪い癖があり、どんどん意見をするようになり、次第に関係に亀裂が入ってきました。
そして僕はこう思いました。
自分がギターを練習して、自分のギターに合わせて弾いてやる!
これが今の音楽を始めるきっかけでした。
それからというもの、おさえるのに1ヶ月くらいかかると言われてるFコードに半年かかりながら、そして、周りの人からセンスがない、やめたほうがいいと言われながら、毎日合計、最低8時間くらいはギターを弾いていました。
形になった頃には僕の心の中にもう陸上は完全になくなってしまっていることに気づいてしまいました。
そして同時に、チヤホヤ云々というよりも、ギターで出したい音を出すこと、それに合わせて歌うことにどんどんのめり込んでいき、こだわりが強くなっていきました。
以前にもお伝えしましたが、母はとんでもないピアニストで、世界三大難曲のひとつを日本人で何番目だったかに弾いたくらいのすごい人でした。
それもあってか、幼い頃の僕は絶対音感があり、なんとなく聴いたうたをピアノで鳴らす、ということができたのですが、楽譜というものの存在を知ったからピアノが苦手になり、陸上に打ち込んでいたのもあって完全に縁のないものになっていました。
そんな僕も大学生になって、今度はギターですが再び音楽に触れます。
しかし、当時の音感はもう完全に消え去り、全くピアノで出したい音を選べなくなっていました。
それに、ギターはもっと構造が複雑、かつしっかり押さえないとそもそも音が出ないというから困ったものです。
下手くそだと笑われているのに、僕は音楽が楽しくて、のめり込んでしまって抜け出せない。もっと知りたい。もっと弾きたい。
これまでの、「表彰された絵」や「生まれつきの足の速さ」など自分にとって得意な分野ではなく、寧ろバカにされるほどセンスのないものに対してどんどんのめり込んでいたのです。
この感情が生まれた時が、まさに陸上を超えた瞬間でした。
そして僕は、母に謝罪した後、迷わず顧問に、陸上部を退部します、と告げました。
それからというもの、オリジナル曲を作って、漠然と使命感に駆られながら地元のライブハウスや名古屋でライブを行い続けますが、進路の選択の時がきます。
教育実習にも行き、友人はみな教員を目指して勉強に励んでいました。
僕が出した答えは、
「教師にもなりたいけど、今はもっと音楽を知りたい、音楽をやっていたい」
でした。
なので、
第一種教員免許は取得して、教師をやりたくなったら本気で勉強して教師になろう。だけど今はやりたいことをやろう!
ということで落ち着き、野望があるというわけでもなく、ただ漠然とした感情だけで東京にいけば何かがあると確信し、上京を決めました。
そして、学生のうちに東京のライブハウスの門を叩こうということで探していたのですが、
その初めてのライブハウスでの初めて出会いが、
あんでぃーさん!
だったわけですね!!
前のブログの話がここでつながります。笑笑
友達はみんな教員採用試験をうけて、受かった人は教員。受からなかった人は講師として教育の現場に立っていったのですが、
僕は仕事に何一つのあてもなく、東京にいくことになります。
しかし、ここで奇跡が起きます。
今働いている音楽教室の校長に、名古屋のライブハウスで出逢います。
「うちで働きませんか、今年から東京に校舎をつくるので、第一号の講師として!」
こうして、今や全国区になりつつある音楽学校現東京本校の、第一号の講師として就任することなりました。
そして、現在に至る、というわけです。
7.現在
ギター弾き語り、キッズドラム、ピアノ弾き語り、ボーカルの講師をしながら、音楽活動をしています。
肝心な音楽活動の方は、、、、。。
まっっっっっったく売れておりません!!!!!笑笑
この原因は色々ありますが、僕が一番の要因だと思っていることは、
自分の音楽が描いている通りにならず、未完成な自分に対して全く自信がなかったことです。
音楽自体は、同じです。未完成のままです。もっともーーーっと進化できると思っています。
だがしかし今回、未完成の自分が出せる今のベストを、あんでぃーさんと二人で一年半かけて作り上げることができました。
自信持って言えます。
最高の作品です。
間違いなく、聴いても後悔しません。断言できます。
僕はこの音源をたくさんの人に聴いてもらいたいです。
それが、これまでの様々な出会った人々、導いてくれた人々、応援してくれている人、両親への恩返しになると思っています。
その恩返しを実現するべく、奮闘しております。
今回のブログを読んで、なんとなーく、こいつ、応援してやってもいいな、と思ってくれた方がいらっしゃったら、ものすごく嬉しいです。
(いや、でも、、好き勝手自分の人生雄弁に語っただけだからなぁ、、、汗 反感買うだけかなぁ、、笑 という不安もありつつ笑笑)
皆様、どうか、宜しくお願い致します!!!