1.今更、「女工哀史」とか「蟹工船」?
日本統治時代の大阪で「女工」として働いた朝鮮人女性に光を当てたドキュメンタリー映画『朝鮮人女工の歌」が8月7日に封切られるそうです。
朝鮮日報日本語版より一部引用します。
監督は大阪出張の際、嘗て岸和田にあった寺田紡績の跡に赤い十字架を見たことがきっかけで映画を着想したと言っていますが、この映画は元ネタがあります。それは嘗て朝鮮総連に所属して、その後北朝鮮を批判する立場に”転向”した在日二世のノンフィクション作家、金賛汀氏が書いた『朝鮮人女工のうた : 1930年・岸和田紡績争議』(岩波新書/1982.8)です。
※下記「国立国会図書館デジタルコレクション」で読むことができますが、閲覧にはユーザ登録が必要です。
監督が取材した女性の一人は98歳だそうで、1926年生まれくらい。(韓国では数え年を使うので誤差があるかも知れません。)
彼女は11歳の頃に年齢を偽って紡績工場で働いたそうですが、そうすると1938年(昭和13年)辺りからでしょうか。
2.映画が「相愛会」を中傷するのは何故?
朝鮮日報には下記の記述がありました。
「相愛会」(そうあいかい)は、日韓の歴史問題、特に、”関東大震災の朝鮮人虐殺” を調べている者ならよく知られた団体で、後に朝鮮人として(創氏改名もせずに!)国会議員になった朴春琴(パク・チュングム/ぼく しゅんきん)が創設した団体です。そのスローガンは『内戦融和』。つまり、親日的な朝鮮人の団体です。
上の画像に映る笑顔の人達は関東大震災の瓦礫除去のボランティアをする相愛会のメンバー。
朝鮮人に対する日本人の悪感情を解消しようと、李起東会長と朴春琴副会長を東京市役所に呼んで社会奉仕活動をしたらどうかと提案した事により実現したものです。
3.社会主義者や共産主義者と思想的に対立していた「相愛会」
関東大震災では多くの朝鮮人の方々の死傷事件がありました。韓国や反日団体が主張する6000人の犠牲者というのは根拠がないのですが、自警団などの過剰防衛で数百人規模の朝鮮人が犠牲になったのは事実です。
そのような悲惨な事件が起きた背景の一つには、関東大震災が起きた1923年(大正12年)当時は、... これは朝鮮人だけではありませんが、... 多くの社会主義者や共産主義者、無政府主義者(アナーキスト)が跋扈していた時代という事がありました。また、朝鮮人の独立運動家が内地に侵入していた時代でした。
そのような朝鮮人とは一線を画していたのが「相愛会」です。
前述の『朝鮮人女工のうた : 1930年・岸和田紡績争議』の目次を見ると、「2 跳梁する人買い人」、「3 募集人が女衒に早変わり」「12 相愛会と女工」と、朝鮮日報の ”手数料名目で女工たちのお金を横取りし、性的搾取や暴力をためらわない朝鮮人団体「相愛会」” というイメージと重なる見出しが目に付きます。
つまり、この映画は『朝鮮人女工の歌』の焼き直しの様なのです。
相愛会が社会主義者や共産主義者と対立していたのは、1929年の機関誌『戦旗』を読むと分かります。
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ちなみに1929年の『戦旗』には小林多喜二の『蟹工船』が掲載されました。要するにプロレタリア系の文芸雑誌です。
つまり、韓国の左翼の間では、日本ではカビが生えたような階級闘争史観が未だに生きているのです。
以下、『戦旗』から、「川崎乱闘事件の真相」という記事の冒頭部分を引用して終わりにしますが、相愛会は「官」(日本政府)に近い位置で「口入れ屋」(就職斡旋)のような事をしていたのでブルジョア的であり、労働者達を親日派にし、労働組合のように会員にしていたので、社会主義者から見たら不倶戴天の敵だったようです。
要するにこの映画は1930年代の社会主義者や共産主義者の目線なのです。