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韓国MBC記者が相川郷土博物館に来て「強制労働と書いてない!」と怒り心頭w

8月15日、韓国の『MBC』が佐渡の相川郷土博物館を取材しました。ニュース動画のタイトルは『【すぐ行く】ユネスコに登録された佐渡鉱山へ行ってみると...観光客は「強制性を知らない」。』です。このレポートの内容を機械翻訳や動画のキャプチャを交えてご紹介します。

▼動画ニュース

▼上の動画を文字起こしした韓国語の記事はこちら。

* * * *

「すぐ行くぞ」社会チームのジェ・ウンヒョ記者です。
日本の佐渡鉱山の前に出ていますが、このようにユネスコの世界文化遺産登録を祝う横断幕があちこちに掲げられています。
朝鮮人強制動員の辛い歴史が残る場所で、当初韓国政府は遺産登録に反対していましたが、韓日交渉後、賛成に立場を変え、遺産登録が可能になったのです。
交渉結果について韓国政府は、日本が朝鮮人労働者展示室を設けるなど、過去より進展したと強調しました。
果たしてそうなのか、すぐに行ってみます。

朝鮮人労働者が多く動員されたと推定される道遊坑です。
夏のピーク期の1日平均の観覧客は千人以上で、涼しい坑道は観覧客でにぎわいます。
坑道の端は採鉱道具展示室につながります。

一方の壁面に掲げられた「佐渡鉱山近代史年表」から朝鮮人労働者の記録を見つけることができます。
「朝鮮人労働者の日本動員を始めた」、「敗戦によって朝鮮人労働者が帰った」となっています。
佐渡鉱山にある朝鮮人労働者に対する唯一の記録ですが、「強制」という表現はありません

韓日交渉によって設けられた展示室は鉱山から2キロ離れた相川郷土博物館に設置されました。でも、佐渡鉱山の観覧客のほとんどが郷土博物館を知らなかったり、行く計画がないということです。

【アサイ/観覧客】
通訳:そこ(相川博物館)に行く気はありますか?
「相川?」
通訳:相川郷土博物館
「分からないんですけど。」

【クロサワ/観覧客】
「(相川博物館は)行きません。 3日間滞在しているが、観光目的で来たので... 」
 
相川郷土博物館を訪ねてみました。
相川郷土博物館1階です。
今から朝鮮人労働者に対する記録がある展示室に移動してみます。
急な階段を上って狭い展示室に到着しました。 ここが朝鮮人労働者に関する記録がある唯一の場所です。
展示室の名前は韓半島出身者を含む鉱夫たちの暮らしで、4坪余りの空間です。
案内文には朝鮮人労働者が劣悪な環境でより危険な仕事をしたとなっています。
7人が逃げ、3人が投獄されたという記録がタバコ支給名簿に残っているという内容もあります。
強制性を推察できる説明はこれが全てです。
日本語、英語の案内文のどこにも「強制」という単語はありません

なお、この3名かどうかは不明ですが、歴史認識問題研究会の報告書『佐渡金山における朝鮮人戦時労働の記録』によると、1942年4月29日に朝鮮人労働者3名を花札賭博で警察署に連行しようとしたところ、仲間を取り戻そうと160数名の朝鮮人労働者が事務所を襲い、労務課の事務員に傷害を負わせ、事務所の窓ガラスを割ったので、所轄の相川警察署が首謀者8名を検束、騒ぎを収めたという記録があるそうです。

むしろ、隣には「公募で採用した」とか「未払い賃金を供託した」など、強制労働ではないと勘違いさせるような内容も書かれています。

実際に観覧客は展示を見ても強制動員だったとは知らなかったと言います。

【観覧客】
「朝鮮半島出身者が来て採掘したことを知りました。」
通訳: この展示物を見て(朝鮮人が)強制動員されたという感じを受けることはありませんでしたか?
「はい」

博物館側は、議論は知っていますが、修正を検討する権限はないという立場です。
【学芸員】
「ニュースを通じて韓国に議論があるということは知っています。 しかし、私たちが内容を変える権限はないので、皆さんに理解していただきたいと思います。」

佐渡鉱山から車で7分の距離に観光客が多く訪れる「きらりうむ観光センター」がありますが、ここにも強制動員に関する記録はありませんでした。

「すぐ行くぞ」、ジェ・ウンヒョでした。

前掲の年表に、「1939年 労務動員計画で朝鮮人労働者の日本への募集始まる」とあります。
1939年7月8日に公布〔15日施行〕の国民徴用令は朝鮮人も含む全国民が対象でしたが、実際には内地(日本)のみで、朝鮮半島では適用されませんでした。しかし、これと同時に朝鮮では戦時動員が開始されたので、「応募」や「官斡旋」という形式で朝鮮人労働者の募集を行いました。
朝鮮で「徴用」... これは義務なので ”強制性” を伴いますが... が行われたのは1944年9月から、連絡船が途絶える1945年3月までのおよそ7ヶ月間でした。

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