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意識の領域〜クオリア考〜
それこそ、口角泡を飛ばして…といったテイで茂木健一郎は「クオリア」との出会いについて記している。
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きっかけになったのは、電車の中でノートをつけている時だった。突然、電車のガタンゴトンという騒音が、その生々しい質感とともに、私の意識に迫ってきたのだ。その時、脳の中のニューロンがどのようにつなぎ変わったのかわからない。とにかく、私が認識したものが、音の周波数のスペクトルを分析するとか、あるいは「ガタンゴトン」と言葉で表現するとか、そのような解析の方法では決して本質に迫れないあるユニークな質感、すなわち「クオリア」を持っていることが、一瞬のうちにすっと私の存在に迫ってきたのである。
クオリアといえば、「脳科学辞典」にはこうある。
クオリアは、我々の意識にのぼってくる感覚意識やそれにともなう経験のことである。脳科学では、クオリアはなんらかの脳活動によって生み出されていると考える。しかし、具体的にどのようなメカニズムがどのようなクオリアを生み出すのか、また、クオリアを生み出す脳活動と生み出さない脳活動では何が違うのか、等はわかっていない。そもそも、クオリアは生物の生存にとってどのような意味で有効なのかすらが明らかでない。哲学者は長くクオリアについて論じてきたが、クオリアという概念に意味があるかどうかですら、意見が分かれている。
クオリアは感覚の「質」である。感覚は意識によって発動されるから、いま意識していること(経験)の微細な「質」をさすのであろう。クオリアは、その対象の質ではなく、意識体験そのものの質を示唆しており、「究極的に広義のクオリアは、ある生物がある一瞬に経験するすべての感覚モダリティと、すべての非感覚的経験(思考・感情・記憶等)を含むものとなる。そこまでいくと、一瞬一瞬の経験には再現性がないため、科学的な研究はできないだろう」と「脳科学辞典」にも述べられている。
「再現性がないため、科学的な研究はできない」とあるが、それであれば、個人の体験にはほとんど再現性がなく、それらの科学的研究はできないということになってしまうだろう。個人の体験を研究することが「科学」かと言われればその通りなのだが、確かに「科学的であること」には再現性と反証不可能性と因果性が重視され、それらが証明されることが要請されるだろう。だが、それら(クオリアの証明)は、「科学的であるかは疑問」ということであって、それが「悪」とか「偽」であるというわけではないし、仮にそうであったとしても、それには「科学的に悪」とか「科学的に偽」といった冠がつくにすぎない。クオリアについて考えようとした段階で、「科学」ないし「科学的であること」がいかに思考を阻害してしまうのかがよくわかるのである。だから、哲学の領域においては解決しえない(そもそも哲学において「解決した」問題など存在するのだろうか?)と断言されてしまうのだ。これは単に学問ジャンルのちがいということを超えて、対象について考える科学と、対象を捉える存在たる人間について考える哲学との、方法論のちがいなのかもしれない。そうした問題についてなら、ぼくの大師匠(師匠の師匠)にあたる澤瀉久敬の著した「哲学と科学」(NHKブックス、1967)が役に立つかもしれない。昨年復刻版が刊行されたし、Kindleでも読むことができるようになった。NHKの教養大学の講座のひとつとして全13回が放送されたもののテキストであるが、この復刻版に長文の解説を載せた山本伸裕は澤瀉の「熱く語ること」を次のようにまとめる。
「哲学」と「科学」は決して反目し合う関係にはないこと、「学問」が真に「学問」であるためには、その根底に、必ず存在の全体を対象に営まれる学、すなわち森羅万象が内奥においてどのように繫がり合っているかを問う「哲学」がなければならないということである。
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すべての学問の根本には哲学がある。哲学に興味のない人間でもこのくらいのことは首肯できるだろう。かつて、日本の文部官僚たちはこの世から人文系の学問を一掃させようと躍起になっていたことがある。たとえそれが「成功」して理系だけの学問がこの国をおおっても、基礎系の研究(これはじつは哲学にもっとも近いものになるのだが)を蔑ろにしているから、国が滅ぶのは必至であったはずだ。いまさら文系-理系という二分法そのものがクラシックすぎる考えであるのだが、いずれにしても「哲学」は人文系科目の中でも細々とその営みを続けているのだ。澤瀉は、哲学を「全体の学」ないし「本質の学」と考え、科学を「部分の学」または「現象の学」と捉えた。
少し議論を先走りすれば、だからクオリアについて考えることは哲学的に考えることであると同時に科学的に考えることになるのだ。それはクオリアが感覚や感情を全体的に捉えることであり(哲学的)、同時にどのようにして対象を覚知しているかを考察することである(科学的)からだ。澤瀉久敬はベルクソン流の哲学のエキスパートでありながら、『医学概論』という三冊本をモノした人物でもあり、また『科学概論』の著者であり、数学にも一家言あった田邊元の教えも受けていたから、科学(医学)への関心も深かったのである。
澤瀉はもちろん、現代のように「科学万能」とは考えない。医療技術はもちろん、ARやVRそれにeスポーツなど、iPhoneやEV自動車にいたるまで、科学のないこんにちは想像することもできない(もっともイーロン・マスクと孫正義がモめているのは上納金の額であって、これは「科学的営為の結果」といえるものかもしれない)。しかし、それらの「科学」にももちろん「哲学」は根本的に存在し、技術には必ずそれをおこなう者の道徳性や倫理が伴うし、それを前提として(多くの場合は圧倒的な性善説にしたがって)技術の行使ないし普及が認められているのである。その「結果」が現在の倫理無視・道徳欠如の「科学的日常」であるのだ。
ところで、澤瀉にとって意識は「時間」である。これはベルクソンの、たとえば『意識に直接与えられたものについての試論』(『時間と自由』)や『物質と記憶』の影響下にあると思われるが、まずは物質と精神(意識)を「試験管内で観察できるか否か」で分けたあとにこう述べる。
ところで意識というものの特色は、それが刻々に変化し、新たなものとなるということです。そうして、それこそ時間というものです。私達は普通は、時計に示されているものが時間だと思っております。しかし、よく考えてみると時計には時間はありません。皆様の側にある時計を見て下さい。そこには一つの平面と二つの針、すなわち二つの直線しかないのです。しかしその針が刻々に時間を刻んでいると言われるかも知れませんが、そのように前に或る場所にあった針が今はこの場所へきていると言いうるのは、過去から現在に流れている意識があり、それが過去のことを覚えているからです。そのような意識がなければ、時計そのものにはただ平面と直線、すなわち空間しかないのです。つまり、時間はないのです。しかし時計に時間がないということは、時間というものがないということではありません。むしろ空間によっては表現出来ぬものこそ時間なのです。
意識を空間(場所)でなく時間(流れ)として考えること、これは別に澤瀉久敬のオリジナルではないが、それを前提に医学や科学の解析に向かったのは(ベルクソンに継いで)新しいことであった。
クオリアについては、こうしたことを前提にして考えなければならない。