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無意識の前に意識について
無意識について考えよう。
Wikipediaは、医学や建築に関してはポンコツだが、哲学や精神医学については時々いいことを言っている。
無意識(むいしき、独: das Unbewusste、英: unconscious)とは、意識を失っている状態(意識消失または意識喪失)、または精神分析学を創始したジークムント・フロイトの発見に始まる心的過程のうち自我では把握できない(意識できない)領域をいう(潜在意識)。
ということは、無意識の前提として意識はすでにあり、それが「失われた状態」こそが無意識と言われるということだ、まあ要するに「随意」に対して「不随意」があるわけで、その順位には優劣はないだろう、それが前半。
そして後半は、そうした無意識の定義はフロイトとは別であり、彼の場合は「自我では把握できない領域」という言い方をしている。ここで「自我」というフロイト語が出てきているのでいよいよややこしい。一応「自己意識」と同じような心的過程としておけば、自分では意識できない領域、ということになるだろう。つまり、無意識は意識してしまえば、それは即座に無意識ではなくなるわけで、坐禅のときの心構えみたいなものであるし、西田幾多郎のいわゆる西田哲学の根本義ともなっているのだろうと推測できる。そんな不確定な心的過程について云々するわけであるから、初めから無意識を意識化(言語化)して考えることになり、すでにして矛盾しているのである。それは、フロイト自身にも迷いがあって、無意識を正当に言語化することの困難を語ってはいるのだ。フロイトの無意識についての論攷をランダムに蒐集し翻訳した文献に『フロイト、無意識について語る』(中山元訳、光文社文庫)があるが、そのいささかわかりにくい「解説」において、冒頭から次のように書かれている。
『夢解釈』を中心とした前期のフロイトにあっては、無意識は神経症、夢、言い間違いなどの日常的な錯誤のうちから、あぶりだすようにして考察すべき対象であった。しかし一九一〇年代の頃から、いわゆるメタ心理学の理論の構築が進められる時期にいたって、無意識についてあらたな理論の構築が始まる。この時期からフロイトは無意識的なリビドーの運命を探るために、経済論的な考察、局所論的な考察、力動論的な考察を展開するようになるからである。
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「この時期からフロイトは無意識的なリビドーの運命を探るために、経済論的な考察、局所論的な考察、力動論的な考察を展開するようになる」とあるが、こうしたフロイトの態度がのちのドゥルーズとガタリによる『アンチ・オイディプス』や『ミル・プラトー』へと批判的に継承されてゆくのである。この二冊の書物の副題は「資本主義と分裂病」であり、心的過程の経済的メカニズムが分裂病(統合失調症)と関わってくることを正確に言い当てた文献となっている。
Wikipediaの説明を続けよう。
そこでは、まず無意識の前提となる意識について略述されている。
無意識とは何かということは、その前提に、意識とは何かということの了解がなければならない。「意識」とは、人間一般において、「わたしが意識していると、意識しているとき、自明的に存在了解される何か」であるとされる(デカルトの「我思う、ゆえに我あり」。哲学の分野では長い間、意識と自我は同一視された)。
哲学における「意識」と「自我」の葛藤についてはここでは割愛する。ただデカルトの時代までは同一視されていたということを知っておけばいいだろう。では「自我」とは何か。先ほど、この専門用語はフロイト語であると言った。フロイト以前にも、またフロイトとは別に「自我」について言及した人もたくさんいる。それでもなぜこれがフロイト語かと言えば、彼が意識と無意識とを峻別する際に、明確化し、これによって精神分析学が始まったからである。
自我はエスからの要求と超自我からの要求を受け取り、外界からの刺激を調整する機能を持つ。無意識的防衛を行い、エスからの欲動を防衛・昇華したり、超自我の禁止や理想と葛藤したり従ったりする、調整的な存在である。全般的に言えば、自我はエス・超自我・外界に悩まされる存在として描かれる事も多い。自我は意識とは異なるもので、飽くまでも心の機能や構造から定義された概念である。有名なフロイトの格言としては「自我はそれ自体、意識されない」という発言がある。自我の大部分は機能や構造によって把握されており、自我が最も頻繁に行う活動の一つとして防衛が挙げられるが、この防衛は人間にとってほとんどが無意識的である。よって「自我は意識」と考えるのには注意しなくてはならない。
エス(英米ではイド)は無意識のことであり、「人間の動因となる性欲動(リビドー)と攻撃性(死の欲動)が発生していると考えられている部分」であり、ここから自我を通してあらゆる欲動が表現されるのである。
そうして、このような自我とエス(イド)にまたがった存在が「超自我(スーパーエゴ)」と呼ばれる。
この「超自我」については英語版のWikipediaの翻訳が載せられている。少し長くなるが、一部を引用する。
超自我(スーパー・エゴ)とは、文化的な内在化された規範を反映したものであり、主に、両親が子供に案内したり子供に影響を与えるために、子供に教え与えたものである。フロイトは、より早期の、「自我」という概念と、「『自我』による自己愛的な満足を監視する、我々が良心と呼ぶ特別な精神的装置」という概念との組み合わせから、この「超自我」という概念を発展させた。フロイトから見れば、超自我を取り込むことは、親の助けによる、親との同一視の成功として理解される。超自我が発達するにつれて、教育者や教師や道徳のモデルとして選ばれた人など、親の立場に立つ人達からの影響を取り込むようになる。
超自我は完璧を目指す。超自我は、人柄(パーソナリティ)の組織化された一部分である。超自我は、概ね無意識的に行われるが、完全に無意識的ではない。超自我は、個人の自我の概念を含み、精神的目標を含み、自分の欲求や空想や感情や行動を批評したり禁止したりする、通常は良心と呼ばれる精神的装置を含む。超自我は、悪いことに対して、罪の意識と共にこらしめるような、ある種の良心であると考えることができる。例えば、婚姻外の情事に対する罪の意識である。この意味において、超自我は、「内的な批評家」を概念化したものであり、それは「IFS」や「声の対話」のような現代の治療法においても示される。
超自我は、イドとは反対方向に働く。イドは、その場の自己満足を求めるのに対して、超自我は、社会的に適切な方法で行動するよう求めて、イドと戦う。超自我は、我々の正誤の判断や、罪の意識をコントロールする。超自我は、社会的に容認される行動を行うように我々を仕向けて、我々が社会に適合するのを助ける。超自我の要求は、しばしばイドの要求とは反対であり、自我は、両者を和解させようとして、困難な時を過ごす。
フロイトの学説によれば、超自我は、父親の存在や文化的な統制を、象徴的に内在化させたものである。超自我は、イドの欲求に反対する立場を取りやすい。両者は、同一の目標物を争っており、自我に絶え間ない働きかけを行っている。超自我は、良心として働き、我々の倫理感やタブーによる禁止を維持する。超自我と自我は、子供時代の無力さとエディプス・コンプレックスという2つの鍵となる要因の産物である。少年は、去勢されることを恐れて、母親を性的愛情の対象にすることができないが、その後に、少年の超自我は、エディプス・コンプレックスが消滅するにつれて、父親の存在を同一視により内在化しながら形成される。
フロイトが超自我を、自我を統制する裁判官とか検閲官とたとえているのがよくわかる件りである。裁判官や検閲官であれば、彼らは「法」にしたがって自らの仕事を行使するが、超自我はその場合、道徳、倫理、理想、禁止、良心など、もっと個人的なものであり、それゆえにその「抑圧と防衛」がさまざまな精神疾患を出来させることになるのだ。そしてこの抑圧(抵抗)と防衛は、個人の記憶と密接につながっていて、「意識にのぼらせようとすると抵抗が生じる記憶があるが、それは主体がこの記憶を意識にのぼらせると不快になるため、自らを防衛するために、その記憶を意識することを拒絶するためである」と中山元も解説で記している。そうした検閲機構が無秩序になるのが夢の世界であり、フロイトが『夢解釈』を著したわけなのだ。
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能楽「井筒」は伊勢物語の第二十三段「筒井筒」を軸とし、ここに登場する男女を、在原業平と紀有常の娘と解釈している。
待つ女である井筒の女(=有恒の娘)が、業平の形見を着て井戸に身を映し、昔を回想するという幻想的な能で、すすきをつけた井戸の作り物が、秋の寂寥感を際立たている。
題名の「井筒」とは井戸の周りの枠のことで、主人公の女にとっては子供の頃に夫と遊んだ思い出の井戸である。
ぼくにとって「井筒」に登場する井戸は、女の記憶を呼び醒まし、同時に業平の姿になり、男のシテが井筒の女を演じ、そしてさらに男の形見の狩衣を身につけて男となっているという不可思議な交代劇を演じている作品のアイコンとなっているのである。
レベルの低いダジャレだが、その「井戸」はフロイトの言う「イド」に相当し、井筒の女が井戸を覗きこむことでイド(無意識)の世界へと入りこみ、この名作が生まれたのではないかと思っている。
まさに複式夢幻能、夢の世界であるから、無意識が関与するのは自明のことなのである。
後ジテ「あだなりと名にこそ立てれ桜花。年に稀なる人も待ちけり。かやうによみしも我なれば。人待つ女ともいはれしなり。我筒井筒の昔より。真弓槻弓年を経て。今は亡き世に業平の。形見の直衣身に触れて。はづかしや昔男に移舞。
地「雪をめぐらす花の袖。(序の舞)
シテワカ「こゝに来て。昔ぞかへす在原の。
地「寺井に澄める月ぞさやけき。月ぞさやけき。
シテ「月やあらぬ。春や昔と詠めしも。いつの頃ぞや筒井筒。
地「つゝゐづゝ。井筒にかけし。
シテ「まろがたけ。
地「おひにけらしな。
シテ「おひにけるぞや。
地「さながら見々えし昔男の。冠直衣は女とも見えず。男なりけり業平の面影。
シテ「見ればなつかしや。
地「我ながらなつかしや。亡婦魄霊の姿は。しぼめる花の色なうて。にほひ残りて在原の。寺の鐘もほの〴〵と。明くれば古寺の。松風や芭蕉葉の。夢も破れて覚めにけり。夢は破れ明けにけり。
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