ボブ・ディランの恥ずべきイスラエル支持ソングと、サブラ・シャティーラ、パレスチナ難民虐殺事件 38周年
ボブ・ディランが 1983年の公式アルバム "Infidels" (異教徒たち) に収めたイスラエル支持ソング (イスラエルの新聞として世界に広く名を知られる Haaretz 2016年5月24日付記事より: "While Dylan’s Jewishness has been examined and reexamined over the years, relatively little attention has been paid to his 1983 song 'Neighborhood Bully' — a rare declaration of FULL-THROATED ISRAEL support by a mainstream American rocker.", 大文字にしたのは引用した筆者, 記事については本投稿の後段でリンクを貼る) を書いたその直前、1982年とは、イスラエルとレバノン、そしてそこに住むパレスチナ難民にとって、どんな年だったのか。
そして、今からちょうど 38年前のこの時期 (厳密に言うと 1982年9月16日から 18日にかけて) は、どんな時期だったのか。まずはそこから触れておきたい。
サブラ・シャティーラ、パレスチナ難民虐殺事件
(1982年9月、ベイルート、虐殺され放置されたパレスチナ難民たちの遺体)
1982年とは、(1975年から続く内戦下にあったレバノンに) 6月6日からイスラエル軍が侵攻、その後、同年 9月16日から 18日にかけ、レバノンの首都ベイルトートにあるサブラとシャティーラのパレスチナ難民 (言うまでもなく 1948年のイスラエル「建国」によって難民となったパレスチナ人の一部を指す) キャンプをイスラエル軍が包囲する中、イスラエル軍が難民キャンプへ向けて照明弾を発射して夕刻の空を照らすと共に、これを合図としてレバノン国内の親イスラエルのキリスト教右派民兵たちが上記の難民キャンプに突入して行なった、歴史に残る「サブラ・シャティーラ、パレスチナ難民虐殺事件」が起きた年である。
犠牲者の数は数百人とする説から 3,500人とする説まで大きな幅があるが、少なからぬ(もしくは多くの)犠牲者の遺体が加害者によってブルドーザーを使って埋められたこともあり、いまだ正確な犠牲者数は把握されていない。筆者が昨日から今朝にかけて見た海外メディアの記事では 3,500人とするものが目立った。
筆者は、あの惨たらしい虐殺が明るみになった直後から、日本でも当然のように大きなニュースとしてテレビ各局や新聞各紙によりそれが報道されていたことをよく憶えている(あの年は大学4年だったが、年末に帰省した田舎の実家で見た当時のテレビ番組で、その年の世界の 10大ニュースの一つとして再び特集されるような、それほどの大きなニュースになったものだった。悲惨さ、深刻さからしたら当然のことではあるが)。
イスラエル軍のレバノン侵攻・侵略に対する批判の声はそれが始まった当初から既にあったが、イスラエルが事実上、親イスラエルのレバノンのキリスト教右派民兵たちに協力・支援することで起きた「サブラ・シャティーラ、パレスチナ難民虐殺事件」が表沙汰になると、いよいよ世界のイスラエル非難の声は大きなものになり、イスラエル国内ですら反戦・反政府のデモや集会などが頻繁に行なわれるようになって、それらは日本の新聞などでも報道されていた。
また、1982年12月16日に開かれた国連総会は、この「サブラ・シャティーラ、パレスチナ難民虐殺事件」を 'Genocide' (集団虐殺:一般に特定の民族、国民、人種、宗教の信徒などをターゲットにした意図的な集団殺戮、大量虐殺を意味し、第二次世界大戦中のナチスドイツによるユダヤ人虐殺、あるいはカンボジアのポルポト派、クメール・ルージュによる国民の虐殺などが代表的なもの) として非難する決議案を審議、反対国なし・123ヵ国の賛成多数で可決している(イスラエル、アメリカ合州国、イギリス、カナダなどは棄権、一方で日本は賛成した)。
しかしながら、48時間以上にわたって続けられた歴史的な虐殺行為に協力し、その残虐な行為の数々を事実上支援したイスラエル軍の関係者を含め、今日に至るまで、国際社会の然るべき公正な場においてその責任を問われた者は誰一人としていない(因みに当時イスラエルの国防大臣として同国の国軍の指揮に当たる最高責任者の地位にあって、その責任を取らされるかたちで辞職に追い込まれたアリエル・シャロンは、後にイスラエルの首相になっている)。
"Today marks the 38th commemoration of the massacre that took place inside the Sabra and Shatila refugee camps in Beirut, Lebanon in 1982. 3,500 Palestinians were killed by Lebanese militiamen from the Christian Phalangist movement allied with ISRAEL over a 48-hour period. Though this massacre was declared an ‘act of genocide’ by the UN general assembly, nobody has been held accountable for these heinous actions. According to UNRWA, there are currently over 475,000 Palestinian registered refugees living in 12 camps scattered across Lebanon still waiting to return home to Palestine." ('ISRAEL' を大文字にしたのは引用した筆者、The Palestine Institute for Public Diplomacy によるインスタグラム投稿より。なお、敢えて日本語にするならプロフィールで「誇り高きシオニスト」とも自称しているアカウント名「右派の誇り高きイスラエル人」が、この投稿に反発するコメントをしているのが確認できる)
*UNRWA とは、United Nations Relief and Works Agency for Palestine Refugees in the Near East の略称、日本語で言うなら、国連パレスチナ難民救済事業機関で、パレスチナのガザ地区、(東エルサレムを含む)ヨルダン川西岸地区、さらにはヨルダン、レバノン、シリアなどで 約500万人のパレスチナ難民に教育、保健、福祉、救急などの援助および人間開発などの活動を実施している、国連機関の一つ。
次は、アメリカ合州国の、イスラエル/パレスチナ問題にフォーカスを当て、同国の中東地域をターゲットとする外交政策を研究・調査する組織・NPO, If Americans Knew のインスタグラム投稿。
"Remembering the Sabra and Shatilla massacre September 16, 1982. The Sabra and Shatilla massacres of Palestinians in Beirut refugee camps were carried out by Lebanese Phalangist militias. But the ISRAEL Defense Forces had control of the area and Ariel Sharon allowed the militias to go into the camps. Somewhere between several hundred and 3000 Palestinians were murdered. Sharon, who died in 2014, escaped punishment for war crimes; in fact, he became an ISRAELI prime minister." ('ISRAEL', 'ISRAELI' を大文字にしたのは引用した筆者。尚、Israel Defense Forces, IDF は、イスラエルの国軍の正式名称)
以下 2点は、「サブラ・シャティーラ、パレスチナ難民虐殺事件」に関する、2012年9月17日付の記事 (IMEU, Institute for Middle East Understanding はパレスチナ問題を扱い無党派で如何なる国にも属さないとする、アメリカ合州国で設立された機関) と、2017年9月14日付の記事 (The Nation はアメリカ合州国の最も古い週刊誌で、プログレッシヴ志向で政治・カルチャー等について報道・分析などを行なうメディア)。
ボブ・ディランの恥ずべきイスラエル支持ソングは、1982年のイスラエルのレバノン侵攻・侵略と、同年 9月のベイルートにおけるパレスチナ難民虐殺事件の直後に書かれた
前章からの続き。
ボブ・ディランは、そんな中、イスラエルの新聞 Haaretz が「アメリカのメインストリームのロック・ミュージシャンによる珍しい、声高な、明明白白なイスラエル支持の宣言」だと形容する、イスラエル支持ソング “Neighborhood Bully” (近所のいじめっ子) を作詞作曲し、1983年にリリースされた彼の公式アルバム "Infidels" (異教徒たち) に収録した(Haaretz の件の記事については、この下で同記事へのリンクを貼る)。
その、ボブ・ディランの歴史的なイスラエル支持ソング “Neighborhood Bully” の歌詞は、今現在も、ボブ・ディランの公式ウェブサイトに恥ずかしげもなく掲載されている(Haaretz の記事も述べているように、歌詞の中の "He" は擬人的な表現であって、イスラエルを指すもの)。
Haaretz のその記事は、こう述べている(大文字にしたのは引用した筆者)。
ヘッドは、「ボブ・ディランの忘れられたイスラエル支持ソングを掘り起こす」(unearth には「掘り出す」「発掘する」といった意味の他に「明るみに出す」「暴く」といった意味もある) ー "Unearthing Bob Dylan’s Forgotten pro-ISRAEL Song",
リードは、"Written in the wake of the 1982 Lebanon war, Dylan’s song 'Neighborhood Bully' equates ISRAEL with an 'exiled man,' who is unjustly labeled a bully for fending off constant attacks."
記事本文の中に目を引く箇所は幾つもあるが、以下には、その中から 3箇所だけ転載する。
"While Dylan’s Jewishness has been examined and reexamined over the years, relatively little attention has been paid to his 1983 song 'Neighborhood Bully' — a rare declaration of FULL-THROATED ISRAEL support by a mainstream American rocker."
"Some of the lyrics sound like they could have been taken from speech by ISRAELI Prime Minister BENJAMIN NETANYAHU, who often portrays ISRAEL as besieged."
"Others (引用に際しての注:ディランのイスラエル支持ソングの歌詞の中の "Others", つまり上に引用した指摘を受け、歌詞の他の部分を指す) are reminiscent of the 2015 campaign ads for religious Zionist political party Habayit Hayehudi, in which Education Minister NAFTALI BENNETT urges ISRAELIS to stop apologizing."
因みに NAFTALI BENNETT は、イスラエルの比較的若い世代における代表的なシオニストの政治家リーダーの一人で、2013年から2015年にかけてはイスラエルの「ディアスポラ」(ユダヤ人の離散)問題担当大臣 'Minister of Diaspora Affairs' と経済担当大臣 'Minister of Economy ', そして「宗教活動」担当大臣 'Minister of Religious Services' を務め、2015年からは「ディアスポラ」問題担当大臣を続けると共に、教育担当大臣 'Minister of Education' を務めている。また、昨年から今年にかけては、国防大臣 'Minister of Defense' にもなっていた人物。
ここで、イスラエルがどういう国なのかを考えるための事例にもなるので、NAFTALI BENNETT の生い立ちにも触れておくと、彼は 1972年のハイファ(1948年のイスラエル「建国」以降はイスラエル領、それ以前はイギリスによる委任統治領だったパレスチナの一部) 生まれだが、彼の両親はアメリカ合州国から1967年にイスラエルに移民したユダヤ系アメリカ人。
もう少し厳密に言うと、NAFTALI BENNETT の両親は、1967年6月の第三次中東戦争(このイスラエルによるパレスチナへの更なる侵攻・侵略により、イスラエル「建国」直後の第一次中東戦争の後はヨルダンが統治していた、旧パレスチナの東エルサレムとヨルダン川西岸地区、および同様にエジプトが統治していた旧パレスチナのガザ地区が、イスラエルによって占領されることになった。なお、同年、1967年11月22日に開催された国連安保理は、決議242号により上記の占領地からのイスラエルの撤退を要求し、さらにそれを再確認する決議も後に為されているが、イスラエルは半世紀以上経った今も決議を遵守していない)の 1ヵ月後に、アメリカ合州国からイスラエルに移住している。
以下は、Haaretz を含む、4つのメディアによる、ボブ・ディランのイスラエル支持ソング、およびディランのイスラエル支持のアティチュード(姿勢)に関する記事。
見て分かる通り、アメリカ合州国の The New York Times, Washington Post, イギリスの The Guardian, The Independent といった、世界中によく知られたメディアの記事はない。
日本の朝日新聞を含む、世界の主流派メディアは、「ボブ・ディランの不都合な真実」に沈黙し続けている(こうしたことについて筆者は過去の note 投稿テキストの中に書いているので、次の章でその投稿へのリンクを貼っておきます)。
Haaretz (2016年5月24日付) ー 「ボブ・ディランの忘れられたイスラエル支持ソングを掘り起こす」
Al Jazeera (2016年10月22日付) ー 「ボブ・ディランのもう一つの顔」
The New Arab (Al-Araby Al-Jadeed) (ロンドンをベースに発行されているアラブ系メディア, 2016年10月23日付) ー 「イスラエルの守護者としてのボブ・ディランの肖像」
The Electronic Intifada (2016年10月18日付) ー 「ボブ・ディランによる、イスラエルの戦争犯罪の積極的な容認」
ボブ・ディランの不都合な真実 〜 しかし、日本の朝日新聞を含む、世界の大手メディアは、ディランの「権威」の前に沈黙を守り続けている
前の章の最後に、今日の投稿で書いた「ボブ・ディランの不都合な真実」を取り上げた 4つの記事へのリンクを残したが (イスラエルの Haaretz, アラブの Al Jazeera, イギリスのアラブ系メディア The New Arab, アメリカ合州国の The Electronic Intifada) 、その際にも書いたように、アメリカ合州国の The New York Times, Washington Post, イギリスの The Guardian, The Independent といった、世界にその名をよく知られた著名なメディアは、これについて沈黙を守り続けている。朝日新聞を含む、日本の大手メディアも同様。
因みに、メディアだけではない。
筆者は、2016年にボブ・ディランがノーベル賞を受賞するに当たり(文学賞、なお筆者はミュージシャンがその優れた作品・歌の歌詞によって「文学」賞を受賞すること自体には何ら異論を唱えるものではない)、ノーベル文学賞の選考委員会を兼ねるスウェーデン・アカデミー (The Swedish Academy) の当時の責任者 Sara Danius ともう一人の役員に対し、二度にわたり、ボブ・ディランが 1982年のイスラエルによるレバノン侵攻・侵略とその際に起きた 3,000人以上の犠牲者を数えるとされる「サブラ・シャティーラ、パレスチナ難民虐殺事件」の直後にイスラエル支持ソング “Neighborhood Bully” (近所のいじめっ子) を書き、その歌は 1983年にリリースされた彼の公式アルバム "Infidels" (異教徒たち) に収録され、その歌詞は今も彼の公式ウェブサイトに掲載されている旨を伝え、ディランへのノーベル文学賞授与は再考すべきだとする内容のメールを送った(スウェーデン・アカデミーの公式ウェブサイトには各役員個人宛てにメールを送ることができるよう、わざわざそれぞれの個別のメールアカウントが記載されている。筆者はその個別のアドレスに宛てて、二度にわたりメールを送った)。そして、完全に無視された。前文に括弧書きした通り、公式ウェブサイトにわざわざ記載されている個別メールアカウントに対し二度にわたり送信したにもかかわらず、返信は一切なかった。
以下は、本投稿(特に本章と前の章)に関連する、筆者の過去の note 投稿。
「ボブ・ディランの不都合な真実」(1)に当たるのは、以下の投稿。