板門店 1984 〜 「韓国」全斗煥/「北朝鮮」金日成時代に訪れた冷戦下の南北分断ライン
前説としての「放浪」もどき旅 〜 「もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵」にてざっくりと振り返る
大仰な投稿タイトルを付けたものの、少なくとも今日のところは 37年前の「今日」、1984年1月30日に板門店を訪れた時に撮った写真を中心に、当時初めて旅した韓国をざくっと振り返る投稿に留めると思う(いや今この投稿を note にアップする前に見たら確かに板門店は「ざくっと」だけど他のことを沢山載せていて「留め」てるんだか風呂敷広げたんだか、まぁいつもの如く)。
1960年9月11日生まれの筆者としては(月日まで書くのは誕生日に贈り物が欲しいのではなくて(笑) たまたまの 911生まれということに少しだけ拘りを持っているから)、1980年代前半期に日本において「第一次韓国ブーム」と呼んでいいような時代があったそれよりも前からかの地、つまり韓国もしくは朝鮮半島の歴史や日本との関わりに関心を持つようになって以来、相当に時間が経過していて、その間、国レベルでも自分の個人的な関わりにおいても多種多様なことがあったので、書き出すと何処からあるいは何を中心に書こうかと迷った挙句どんどん活字ばかり増えていきそうで。
しっかし、そもそもここまで既に、活字使い過ぎ、このままでは「もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵」。「嗚呼!!花の応援団」(どおくまん)、じゃなかった、嗚呼!!懐かしの椎名誠、最近も元気にしておられることを願う!!
はたして「前説」なのか何なのか、とりあえず、1984年1月に韓国を初めて訪れるまでの海外「放浪」もどきの旅をざっくり(ところで冒頭の段落で「ざくっと」って表現使ったけれどあれも「ざっくり」と同じような意味で使えたよね、やや気になる「もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵」、また活字多くなった)振り返ると、
1983年4月26日横浜港を発って2泊3日の船旅で当時のソ連・ナホトカへ、で、あの頃はウラジオストックは軍事的理由で外国人は入れなかったのでナホトカから列車でハバロフスクまで出てそこからシベリア鉄道の旅、途中イルクーツクで下車 1泊してからモスクワへ(シベリア鉄道は確かトータルで 7泊8日)、その後は国名等の列記でフィンランド、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、西ドイツ、東ドイツについては東ベルリンだけ、それからフランス、スイス、オーストリア、ユーゴスラビア(当時の、つまりチトー「ユーゴスラビア」)、イタリア、ギリシャ、「嗚呼!!花の応援団」(どおくまん)、じゃなかった、嗚呼!!ブリティッシュ・ロックとアメリカン・ロックで育ちながらどういうわけだ人生の不思議いまだ英米は旅していない、話を戻すとギリシャに入るまでが 2ヶ月半、それからアテネと地中海の島サントリーニ合わせて 1ヶ月いたギリシャ、そのアテネから Maneaters に襲われそうになりながら(マジかよ、Hall & Oates' "Maneaters" を歌い続ける綺麗なお姉さんバックパッカー2人組と野郎は俺一人状態だった嬉しいような怖いような)、まぁとにかくアテネから 2泊3日の列車旅でトルコ・イスタンブールへ、
イスタン3週間楽しんだ後はカッパドキア寄りながら南下の旅をしてトルコの次はシリア、そしてヨルダン、パレスチナとイスラエル、エジプト、カイロからはその「放浪」もどき旅で初めて飛行機使って再びトルコ・イスタンブールへ、居心地いいイスタンで 2週間過ごした後はアンカラへ、そして御伽噺を一席「旧約聖書」「創世記」「ノアの方舟」のアララト山が見えるドグバヤジッドに何日か滞在した後(何日だったか調べりゃ分かるがいま面倒くさい)、イラクとの国境付近でイラ・イラ戦争続けてたホメイニ4年目、でもトルコとの国境は戦地じゃなかったよ、イランへ、引き続き陸路パキスタン、インド、インドは 40日間の「そこそこ」レベルの長旅(でもデカイ国だから北インド中心)、年末年始はガンガーを眺めながらヴァーラーナシーで過ごし、
インドで最後に訪れたカルカッタから「放浪」もどき中 2度目の飛行機でタイ・バンコクへ(あ、まぁこの写真は俺の顔じゃなくてゲバラの顔だけど勿論!!)、
そういう旅だったけれど、今日 2021年1月30日現在、note ではまだソ連・ヨーロッパ方面のことは殆ど書いてないなぁ。それはまた、そのうち。明日書くかどうかは分からない、それは「あしたのこころだ」(小沢昭一)、まぁ明日は書かないだろうけれど、とにかく、そのうち。
なぜ「放浪」もどきの旅をしたのかというと 〜 "Every Picture Tells A Story" (Rod Stewart) ♫
この歌、音、メロディだけじゃなくて、歌詞も素晴らしい。若いころ旅に出たかった気分の「おおよそ」のことなら(筆者は特別劣等感に苛まれていたのではなかったし親父に勧められたのでもなかったが、でも自分の親父もこの歌の歌詞の中の親父みたいな人だったな 92歳の今現在も健在・元気!)、この歌の中に見事に描かれている。
Every Picture Tells A Story 〜 a title track from the third album by Rod Stewart, released on May 28, 1971 ♫
*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。
ようやく本題: 韓国 1984年1月 〜 まずは 慶州
今日はこの後、ほぼ写真だけなのだ。まずは韓国の古都、慶州 경주, カタカナ書きするなら「キョンジュ」。日本で古都と言えば京都もしくは奈良だけど、雰囲気は奈良に近い。そもそもナラって韓国語で書くと 나라, その意味は「国」なんだけど、奈良は朝鮮半島からの渡来人による貢献が極めて大きい(日本の)古都。奈良市だけでなく、奈良時代より更に前の飛鳥時代の史跡がある奈良県明日香村に行ったことがあるが、あそこに行くとますます、朝鮮半島から日本に渡ってきた人たちがどれだけ当時の先進文化を伝えてくれたのかが分かる。
韓国の旅の話からやや逸れてしまったけれど、とりあえず写真の一部。当時、韓国で新婚旅行と言えば慶州か済州島。今はもう日本と変わらず大抵の人は海外なんだけど(コロナ禍の今は日本も韓国も気の毒!)。
1) 仏国寺 불국사 .. カタカナ書きするなら「プルグクサ」。この「おっさん」のようなジーパン男は当時23歳の筆者。
2) 仏国寺の仏塔の前で。
あ、仏塔と言えば、
話がインドに飛んだ、「飛びます、飛びます」(坂上二郎)。戻そう。
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韓国 1984年1月 〜 その 2:ソウル(景福宮, 徳寿宮と南山タワー)
景福宮(경복궁, カタカナ書きするなら「キョンボックン」)で撮った写真が 6枚、徳寿宮(덕수궁, 同「トクスグン」)も美しいところだけれど大した写真が残ってない2枚、残る1枚は南山タワー前の筆者、23歳なのにオッサンぽい。1982年札幌にて旅行資金を貯める仕上げで居酒屋「村さ来」でバイトしてた頃、飲みに来る同年輩のお姉ちゃん(同年輩なのにお姉ちゃん!)に「山本くんって三國連太郎に似てるぅ〜」って言われてたんだってば、バイト当時の俺は21歳、その時の三國連太郎は59歳!
1) 景福宮
2) 16世紀末の豊臣秀吉の日本による朝鮮侵略(「文禄の役」1592~1593, 「慶長の役」1597~1598)における被害等について展示されている場所がある。
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7) 徳寿宮にて
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9) ソウル・南山タワー(現在は「Nソウルタワー」と呼ばれる場合の方が多いかも)前にて、当時23歳ながら、既にオッサン風情な筆者。
韓国 1984年1月 〜 その 3:ソウル(パコダ公園)
パコダ公園は現在はタプコル公園と呼ばれるのかな。小さな公園だが、1919年3月1日、大日本帝国からの独立宣言が読まれ、「三・一運動」(삼일운동)と呼ばれる民衆による独立運動が起きた場所で、ここには当時の模様を表わすレリーフ彫刻による展示がある。
筆者は戦後の日韓関係史においては日本だけでなく韓国政府サイドの問題にも批判的であり(しかしコトの問題の主体はあくまで日本)、とりわけ近年の「もつれ」は韓国側の責任「も」大きいと考えるし、韓国側の「市民運動」の一部(一部!)に犠牲者・被害者よりも「運動」(の継続)ありきのようなタイプの人たちがいてそれにも批判的だが(そういう「運動」自己目的化タイプの「運動」はもちろん日本でも決して少なくないと思うが)、しかし、今の日本にはウンザリするほどの数の韓国・朝鮮に対する偏見で凝り固まった日本人がいて、ああいう「嫌韓」「反韓」連中は心底くだらない奴らだと思っている。
少なくとも戦前の日本が何をやったのか、そして戦後の日本はどういう態度だったのか、一通り知るべきだと思うが、残念ながらあの種の「嫌韓」「反韓」連中の殆どは「パコダ公園」みたいなところに行って展示されているものを見ても、何も感じない、もしくは自らの国の弁護しか頭に浮かばんのだろうなと思う。
写真は、以下の note 投稿 4点の下。
この下、ようやく、「パコダ公園」で撮った写真 6枚。
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韓国 1984年1月30日 〜 板門店
板門店(日本ではこの漢字を日本語読みして「はんもんてん」、韓国語・朝鮮語では 판문점, カタカナ読みするなら「パンムンジョム」)。ここは、南と北の間の軍事境界線上にある地区。1953年7月27日、南側の国連軍と北側の「朝鮮人民軍」、「中国人民志願軍」との間で停戦協定が結ばれ調印された場所で(日本でいうところの「朝鮮戦争」は 1950年6月25日に北側の侵攻により始まったが、韓国ではこの 6.25の韓国語 육이오 (ユギオ) をもって同戦争を意味する)、同年10月以降は停戦監視のための「中立国監督委員会」と「軍事停戦委員会」が設置されている。「停戦」要するに「休戦」中なので、既に70年近い歳月が流れながら、いまだ「戦争」は正式に終結していない。
筆者がこの場所を訪れた時は、ソウルのロッテホテルから団体ツアーのバスが出ていた(服装指定があってバックパッカーには辛いものがあり、靴など市場に行って新たに買うしかなかった)。今も同様かな。ただ、おそらくは今はだいぶ変わっているに違いないと思うのは、ツアーガイドによるプロパガンダ解説。当時はプロパガンダは北だけの「専売特許」ではなく、(北ほどでなかったにしろ)南側もおそろしくプロパガンダ的な説明が多かった。ガイドのおばさんの日本語による(日本人も日本人以外の外国人もツアーに参加するから英語ガイドと日本語ガイドが二人乗車していたのか、一人が二言語喋ったのかよく憶えていない、おそらく前者だと思う、当時の日記を見返せば分かるが今日はとりあえずこの程度で)案内の中身がすごくて、今でもその印象が強く残っている。要するに、「北には鬼が住んでいる」と言わんばかりの説明で、実際、そんな言葉使いを含めた日本語による説明だったと思う。今、時代は、その意味で「ある程度」、変わったのだろう。
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今日の BGM はこれにしよう 〜 이날치 (LEENALCHI, イナルチ), 범내려온다
筆者はその昔、ハングルと韓国語会話を少しだけ覚えたことがあって、悲しいかな使わないと忘れるもので既にだいぶ記憶から消えているものの、今もハングルは読める。범내려온다 はカタカナ書きすれば「ホンネリョオンダ」ぐらいでいいのではと思う。
朝鮮の伝統音楽パンソリと現代のダンス・ミュージックを融合したような感じのもので、これはほんと、癖になる、心地よい中毒性ある音楽。「音楽」という言葉の枠に収まらないものがあって、パフォーマンス・アート的なものと言っていいだろうか。
下に YouTube 上のミュージック・ヴィデオへのリンクを貼るけれど、이날치 を含む現代の韓国のポップ(特にインディ系)がどんなであるか知りたいなら、例えばこれ、2020年9月26日付の記事。書いてるのは筆者の息子(息子と言っても1992年917生まれ、917も象徴的な月日だな偶然にも、それはともあれ、だから当然ながら大人)、一昨年12月から韓国ソウル在住、少なくともこの 3月までは引き続きソウル!
ではでは、
本日の note 投稿の最後は、범 내려온다 〜 이날치 with 앰비규어스 댄스컴퍼니 ♫