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もう1人の自分と会話する楽しみから、過去を癒し未来を考える

 人の悩みの90%は人間関係って聞いたことがあります。確かにその通りだって思います。2021年はわたしにとって、これでもか!っていうくらい凹むことが多かった年になりました。

 かれこれ、8ヶ月は続いているな
 ふと、今年を振り返ったときに

このままでいいのか?

ってさすがに人生を考え直す機会になっています。そんなに、その人のことを考えているのなら、もしかしたら、大好きなんじゃないのか?って疑われてもおかしくないようなほど、毎日その人のことが頭に浮かんできては、苦しめられるという、負のスパイラル状態。

 人間、不幸な状態のほうが、自分を好きになるってことがある。不幸自慢をする人が良い例である。
 不幸を探すよりも幸せを探す方が絶対に楽しいはずなのに、わたしを含め、本当に理解している人ってあまりいない。
 
しかし、このままでいいのか?

わたしは強く望まない。
もっと成長したいしやりたいことも山ほどある。


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そもそも一体何が原因なのか?

考えられる原因はひとつ「自分が作った壁」である

そもそもって問われると、一体何なのか?
自分が作った壁?

 って忘れっぽい頭をフル回転させながら思い返してみる。そんな頭の中の脳が洗濯機状態の中、その人のことを思い出して、イライラしたり、不機嫌になってしまう。もろに感情が爆発している状態なのであろうか?冷静になろうとすればするほど、動悸が激しくなり、イライラとどうしようもない絶望感でいっぱいになる。

 ここで自分自身を俯瞰してみると、はっきり言ってわたしはダメ人間である
・気が弱すぎる
・伝えられないのは、考えがまとまっていない証拠
・その人から離れられないのは、その人が必要だから
・思考停止も甚だしい


このメッセージは、わたしの中から湧いた、わたしへのメッセージである。まさしく”リトル俺”

 元サッカー男子日本代表の本田圭佑が自分の中にある、「リトルホンダ」と会話をしていたことは有名である。自問自答はするけど、自分の中に住んでいる?佇んでいる?小さな自分?と会話する。わたしもそんな”リトル俺”と会話をすることを楽しみとしていた時期があったと思い出す。

 わたしの”そもそもの原因”とは、一体なんだろうか?
・師と呼ぶ人との絶対的な上下関係
・師と呼ぶ人の奥さんもついでに絶対的な上下関係
・上司と師の違いと変な関係性
・超絶なマウントを取られる関係性


結局は人間関係だなって落ち着きました(>_<)

そもそも人間関係って一体なんだろうか?
何故わたしはその人のことが苦手と思うのか?
わたしの苦手って一体なんだろうか?
いっそのこと、わたしの苦手を定義したい

冷静に考えるほど、問いが生まれる。
わたしは一体何に対して悩んでいたのだろうか?
原因は何であろうか?

ふと気がづきました。
原因は自分だってことです。
結局は自分がその選択をしているということ。楽しくなることも、辛くなることも何も思わないことも、全て自分で決めていることだ。

ということは・・・

 今の状態は自分で決めたので、その通りになっているということである。
理解はできるのだが、肚に落とし込めない。
簡単にいうと、素直に受け入れられないということである。

 自分の中で何かが、この思考を拒絶しているようにも思える。
まるで、水と油がいつまでたっても混ざり合わないような関係であろうか、自分の中ではありえないことなのだろう。

ここでも、そもそも?と、自分に問いたい。
拒絶、受け入れられないと考えるのは何故だろうか?

そもそも論の行く末のゴールを垣間見ている
わたしの中にある、ベルリンの壁以上の巨大でものすごい強度の壁が立ちはだかっているようにも思える。

わたしへ
そんな壁、いつ作ったの?


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今の状態を脱却する一筋の光

その光とは「問いである」
問いこそが、よい質問こそが自分を救ってくれるはずである
それを踏まえて、もう一度自問自答して深掘りしてみる

わたしだけではないはず
わたしだけではないのはわかるが、それがどうしたというのか?

あなたの中の自分を見ることとは一体何であるのか?
本当は自分の理想とするものをあなたが体現しているとしたら?
それに良いも悪いというジャッジは不要である
もしかしたら、世間でいう悪いことと審判されていることでも、その中に自分を見ているとしたら?

その考えを初めて気いいたとき、ものすごく腑に落ちた


しかし、今は全く理解できない。
というよりも、認めたくないのかもしれない。
本当の自分の姿を認めたくないということは、その状態は自分にとって「悪」であることなのかもしれない。

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その「悪」とは一体何なのか?
法律や常識が一切及ばない、自分の中で作りあげられた価値観である。その価値観とはわたしの中で作られている、偏見の中で作られたものであり、誰からも書き換えることのできない、だれも触れることのできない、そして触れることを許されないパンドラの箱のようなものだろう。

もし、真逆のことを考えるとどうだろうか?
わたしの中のあなたとは一体何であるのか?
相手がイライラしている状態とは、もしかしたら、相手がわたしの中に自分自身をみている状態なのではないか。相手が本当にやりたいことをわたしが体現しているとすると、相手の願いを叶えている状態がわたしなのである。

ということは、相手はわたしの中に、理想とする自分を見つけているとも言える。その真逆で、わたしは相手の中に理想とするわたしを見ている。

ということは、結論からいうと、嫉妬、ジェラシーがひとつのキーワードではないだろうか?
手に入れていないものがよく見える。ことわざで「隣の芝が青く見える」というのも、嫉妬心が根本にある、ないものねだりの精神が解消されなければ、一生つきまとう問題でもある。
自分の理性を奪う原因は簡単でありそうだが、解決することは一筋縄ではいかないものであるとも言えるのではないだろうか?

すべて仮説であるが、今、だんだんとわたしの中で凝り固まった考えが崩れそうな、溶け出しそうな状態になっている。

そもそも、嫉妬、ジェラシーとは一体何であるのか?
まっさきに思いつくことは、妬み嫉みである。
わたしだけなのかもしれないが、妬み嫉みとはドロドロネチネチとした底無し沼のような深い闇が自分の中に存在し、蠢いているようにも思える。

嫉妬、ジェラシーを解決する方法ないだろうか?
その解決策こそ、わたしが幸せになる方法であるのだろう。

では、
わたしの幸せとは一体何?
ただ、妬み嫉みが消えれば幸せなのか?
毎日の苦しみがければ幸せなのか?
あの人がいなくなれば幸せなのか?

それではまるで、幼児が嫌いな食べ物をいつまでたっても食べず、ただ避けているだけのことと何ら変わりはないのではないだろうか?
知らない間に食べられるようになったという経験はある。人も同じだろうか?大人になったら、そんな解決しかできないとなると、最悪引きこもって自分の世界だけで生きることになってしまうようにも思える。

しかし、それでは真の解決にはならないはずである。
原因はその人ではなく、自分のなかの自分にある。

問いこそが、よい質問こそが自分の未来を切り開くきっかけになるはずだ!

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自分の中の小さな自分、リトル俺が答えを知っている

わたしの未来は明るいから、安心するのだ!
絶対大丈夫だ!わたしは運がいいんだ!しかし、答えは自分の中にあるから、それを導き出すだけなんだ!
そんな想いがわたしの中にたくさんある。それがリトル俺なのだ!
 
 インナーチャイルドという言葉をご存知かもしれませんが、その名の通り、小さな自分、幼い自分。トラウマや悩みの原因はインナーチャイルドが影響していると考える人もいる。

 よくわからなければ、自分自身と対話、会話をすることをしてみるのも良いです。どのようにするのかは、自分でやってみて欲しいのですが、わたしは瞑想と想像の世界でイメージとして、もう1人の自分と会話をしていました。

 していましたと表現しましたが、最近はまったくしていなかったです。しかし、この投稿を機会に、また試みてみようと思いました。

 今回の投稿は、怪しい奴がダラダラと書き殴っているブログに見えると思います。全くその通りですし、間違いではないです。今のわたしは綺麗事など書けません。ただただ、心の向くままにPCをタイピングをしています。そのおかげで、精神が平穏になりつつあります。

 多分、ここまで読む方もいないだろうと思い、自分の言いたいことだけを綴っています。もし、読んでくださっている方がいましたら、相当な変わりものだと思います。もしかしたら、わたしとお仲間になれるかもしれません。油断して我に返ったのならば、即刻読むことをやめてください。あんぜなら、まだまだ続きがあります。

 リトル俺は大体真っ暗闇の中で、体育座りをしてうずくまっている。そのリトル俺にわたしが話しかける。今までもほとんど会話らしい会話をしたことがないくらい、頑なに無口である。

どうしたんだ?
・・・
大変だったな
・・・(うなづいたように見える)
辛かったな
・・・(またうなづく)
また来るよ

・・・

 真っ暗闇のリトル俺は口を開こうとしない。
その状態って、リアルの俺でも同じかもしれない。都合が悪くなると、恐怖を察知すると、貝が口を開けないように、心も閉ざしてしまう。その状態とは、自分を必死で守っているようにも思える。

 ということは、傷つきたくないということ。
自分の心を伝えるリスクとして、自分の考えを否定されたり、馬鹿にされたりされたくないということではないか?

 わたしはそのようにして、今まで自分を守ってきた。伝えることを恐れていた。黙っていれば、時間が解決してくれるという、いわるゆずるい考えでもあった。言わなければ、だれからも反応されないので、自分は保てる。
しかしそれは卑怯な手法にも思える。

 もしそんなことを相手がやっていたら、わたしはどう感じるのか?
そんな問いが自分をハッとさせる。

 やっぱり嫌だなって思う。しかし、答えを自らの力で導き出したことは単純に嬉しい。
まだまだわたしの未来は明るい!
リトル俺とともに生きていくのだ!

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かならず活路はあるから、諦めてはいけない。それを見つけ出すのは、自分次第である。

 わたしの未来は明るい。今よりもずっと輝いている。今がどん底でもどん底なりの輝きがある。どん底から脱却できたならば、脱却したなりの輝きを持ったわたしになる。

 質問って素晴らしい。質問のことを意識したのは数年前のこと。友人が「しつもんメンタルトレーニング」を学んでいたことに始まる。質問って自分を変えられる魔法でもある。そして、その逆もある。変えること変わらないこと、すべてが必要で大切である。

 解決しない原因は問いが足りない。問いの仕方がよくない。問いにかける時間が足らない。問いの量が足らない。
 解決したいのなら、自分が納得するまで問い続けることが必要ではないか。とことん問い続けること。探究心が自分を救い、世界を救うことになるんだ。

 すべては世界平和のため、今わたしが幸せになることが必要である。幸せになったら、より輝ける。輝きをいろんな人に分け与えることができる。

 今やっとわかった、理解した!なぜ幸せにならなければいけないのか?それは人とつながるため、人を助けるため、笑顔を広げることがわたしの使命。笑顔が広がることがわたしの願い。そのためにも、幸せになる努力は必要である。待っていても変わらない、始まらない。わたしがご機嫌であるために、何ができるのか?そんな問いを日々繰り返したい。

 絶対大丈夫!わたしは運がいい!

明日も元気に過ごすぞ!

最後までお読みくださりありがとうございました!

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