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長い寄り道

村上春樹『羊をめぐる冒険』はチャンドラーの『ロング・グッドバイ』に大きな影響を受けているらしいので、たまたま手元にあった村上春樹訳を読んでみました。

羊をめぐる冒険
https://note.com/daily_sumus/n/nb7667d50e207

実は、この『ロング・グッドバイ』(早川書房、2007年)、これまで少なくとも三冊は買っています。いずれもすぐに手放しました。読んでみようと思ってトライしたのですが、どうしても、このテンポに乗れず、数ページで断念して、結局売ってしまう、その繰り返しでした。

村上春樹が訳者あとがきで清水俊二訳『長いお別れ』についてこう述べています。

 もうひとつ、僕が再訳に挑戦してみたいと思った理由として、清水氏の翻訳『長いお別れ』ではかなり多くの文章が、あるいはまた文章の細部が、おそらくは意図的に省かれているという事実がある。これは長年にわたって、チャンドラーの小説を愛好する多くの人が、少なからず不満とするところでもあった。 

p566

清水氏の気持ちはよ〜く分かります、チャンドラー愛好者でない者には。主人公の饒舌ぶりに、今そんなことしゃべってる場合かよという気持ちですね、まあ、ジェームス・ボンドのへらず口に似てるかも(そのせいでもないでしょうがチャンドラーは英国での方が人気があるそうです)。村上は「寄り道の達人、細部の名人」と書いています。たしかに。長い寄り道です。

ところが、読めないはずなのに、古本として出会いますと、この派手なブックデザインに魅かれて、つい買ってしまうというわけです。ジャケットのデザインはチップ・キッド(Chip Kidd)というグラフィック・デザイナーです。安っぽさギリギリ。検索してみると村上春樹の作品も手掛けています。

恐竜の化石を図案化したマイクル・クライトンの『ジュラシック・パーク』のカバーをはじめ、ジョン・アップダイク、コーマック・マッカーシーなど有名作家の作品を多数手がける。本書のカバーは、1940年代の古いペーパーバックの表紙を現代風にアレンジしたもの。

カバー袖の紹介文

Chip Kidd – Penguin Random House Graphic Designer
http://chipkidd.com/home/

さて、なんと、この度は、羊効果があったらしく、最初のスローな展開を乗り越えて警官にいたぶられるあたりから面白く読めはじめ、最後までクリアしました。

なるほど、たしかに、コーヒーを淹れて飲むシーンが頻繁に出てくるところなどは羊そっくりですし、室内の描写でもそのまま引き写したのかと思うような部分もあります。会話の気の利いたやり取りも似ていると言えば似てなくもありません。

しかしながら、全体としては、村上春樹とチャンドラーが人間として違っているくらいには違っているように思いました(当たり前すぎる感想ですが)。決定的な違いは、チャンドラーが文学への未練をそこここに残しているのとは逆に(チャンドラー自身を投影した作家も登場しています)、村上は文学から離れよう離れようとしているようにも思えるところです。

探偵小説としては、まずまずのトリックでしょう。1950年代なら上出来です。美女が登場したところで犯人の見当がつきましたし、ギャングにボコられそうになったあたりでどんでん返しがピンときました。今となってはそう珍しくもないのですが、この小説のペースにはまってしまうと、なるほどね、そうきたか、と感心させられます。もちろん、ここでは内緒にしておきますけれど。

作中に登場する作家ウェイドがマーロウにこんな演説をする場面があります。

マーロウ。作家なんてだいたいがいかがわしい人種だし、僕はその中でもとびっきりいかがわしい人間だ。これまで十二冊のベストセラーを書いたし、今そこに積み上げてあるがらくたをなんとか書き上げられたらたぶん、十三冊めということになるだろう。しかし語るに足るようなものは一冊としてない。この土地はとびっきり閉鎖的なとある大金持ちの所有するもので、選び抜かれた階層の人間しか住めない。そこに僕は立派な屋敷を構えている。僕を愛してくれる美しい妻がいるし、僕を愛してくれる立派な出版業者がいるし、そして何にも増して僕を愛してくれる僕自身がいる。僕は鼻もちならないエゴイストであり、文学の娼婦であり、あるいは文学のぽん引きなんだ。

p243

さびしい話ですが、ここにはプロットに関するいつくかの嘘が混じっています。それはともかく、村上春樹を読むなら、この作品も読んでおいて損はないように感じました。熱の入った訳者あとがきも。

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