プラハ滞在は私の人生における最も美しい思い出のひとつである
チェコのシュルレアリスム系の文芸作品を英語に翻訳して次々と刊行しているのがプラハに本拠を置くTWISTED SPOON PRESSである。京都の午睡書架が継続的に仕入れているので、時折、気に入ったタイトルを買ってみる。
TWISTED SPOON PRESS
https://www.twistedspoon.com
今回のこの本は、ネズヴァルという日本ではあまり知られていないシュルレアリスト詩人がプラハの街を描いているところに少しばかり興味を持った。プラハへ最近出かけられた方のブログ写真を拝見して旅心をいたく刺激されたということもあった。
アドルフ・ヒトラー プラハ演説 マン・レイと余白で
https://manrayist.hateblo.jp/entry/2024/06/29/060000
本書は、1938年、ナチスの足音が聞こえてくる情況のもと、ネズヴァルがそれまでのシュルレアリスム運動の仲間から孤立した時期に、プラハという古い街を徘徊して、そこから湧き上がってくるさまざまな心象を綴った散文詩集のような内容になっている。本書のカバー袖の紹介文を、じつに拙い翻訳ながら、ひととおり示しておく。
本文は、例えばこんな感じの文章である。
My antipathy to capitalists does not come from the belief that they have everything, that they have more than everything, that they have, could have, it all(with or without joy, but that's irrelevant), but from the belief that their "have" implies "not have" for the majority of humanity ー and the animus I feel will never devolve into the glamor they possess. p25
[中略]
From there I like to walk down Celetná Street, down that thoroughfare where I can already sense that most characteristic Prague skyline.
No matter how fashionable, no item, no book, even if it came out this very week, could ever alter the old-world ambience of the Hynek Bookshop in whose storerooms I would like to discover one day those penny dreadfuls that so enchanted my nannies. p25
No matter how modern, no amenity could ever deprive the Peterson Pipe Shop of its archaic gloom, much like the single-track electric tram line that replaced the rather poor horsecars of before, and no matter how new, no apartment house could ever alter the channel that is Celetná Street, nor divert its course away from the marvel of Old Town Square. p26
In the spring of 1935, André Breton, Paul Eluard, and I went into one of the oldest Prague wine bars so that I could be stunned(it was afternoon)by the ground-floor window situated under a high vaulted ceiling in which stood, magnificent as ever, the astronomical clock on Old Town Hall. p26
引用したの最後の段落は貴重な思い出になっている。1935年にアンドレ・ブルトンとポール・エリュアールがプラハにやってきた。ネズヴァルの熱心な勧誘があってようやく実現したのだった。ツェレトナー(Celetná)通りはプラハで最も古い街路のひとつ。カフカも住んだことがあるという。古いワインバーから市庁舎の大時計をブルトン、エリュアールたちと眺めたときのネズヴァルの幸福感は想像に余りある。
参考までにどういう経緯でブルトンたちのプラハ訪問が実現したのかを調べてみた。ポンピドゥー・センターでのブルトン回顧展の図録『アンドレ・ブルトン André Breton』(1991)の記事をメモがわりに短くまとめておく。執筆は Philippe Bernier。
チェコのシュルレアリスムはデヴェツィル(Devětsil)グループによって代表される1920年代のアヴァンギャルド運動から直接生じている。そこにプラハの主だったシュルレアリストがほとんど参加していた。理論家カレル・タイゲ(Karel Teige)、画家インジフ・シュティルスキー(Jindřich Štyrský)とトワイヤン(Toyen)、詩人たち、ヴィーチェスラフ・ネズヴァル(Vítězslav Nezval)とコンスタンチン・ビーブル(Konstantin Biebl)、演出家インジフ・ホンズル(Jindřich Honzl)、作曲家ヤロスラフ・イェジェク(Jaroslav Ježek)。1920年10月5日に設立された「デヴェツィル」は1933年まで続き、シュルレアリスム運動へとつながった。
1933年、パリを訪れたネズヴァルとホンズルは5月9日に初めて、ほとんど偶然に、ブランシュ広場のカフェで、シュルレアリストたちに出会った。ネズヴァルは「デヴェツィル」を代表してブルトンへ宛てた手紙を書いていた。それは二つのグループの一致を認め、具体的な協力の基礎を築くというものであった。
1934年3月21日、プラハにおいてチェコのシュルレアリスト・グループの結成を伝える『チェコスロバキアにおけるシュルレアリスム』宣言のなかでその手紙は公刊された。彼らの活動は、夜の会合(最初は5月11日)、そしてさまざまな出版物(ブルトンの『通底器 Vases communicants』のチェコ語訳も準備されていた)などであった。
同じくネズヴァルはブルトンとの実り多い文通を始める。1934年6月18日、彼は『通底器』との直観的で知的な考えの一致を表明し、ブルトンに対して、その秋か冬に、プラハへ来るようにと招待した。1934年6月26日付けのブルトンの返事はプラハでのシュレアリストたちの活動に協力は惜しまないというものであった。ネズヴァルは7月6日付けでブルトンやブルトンの友人たちの作品を愛してやまない、『ナジャ Nadja』のチェコ語への翻訳やシュルレアリストたちの詩集のアンソロジーを出版する用意をしている、と伝えた。
1934年12月16日、ネズヴァルはブルトンに『通底器』の刊行を知らせ、その二部を送付した。彼はマーネス(Mánes)画廊と反ファシズム知識人団体のレヴァー・フロンタ(Levá Fronta)との状況を伝える。すなわち前者は1935年1月31日に「詩と絵画におけるシュルレアリスム」会議を開催したいとし、後者はシュルレアリスムの革命的活動についての会議を2月1日か4日に開きたいとしたのである。ネズヴァルは、ブルトンに謝礼金を出し、他の都市でも講演してもらえるよう約束をとりつけようと試み、また、彼らの雑誌に寄稿してもらたいと伝えた。マーネス画廊でのチェコ・シュルレアリスム展は1月15日から2月4日まで開かれることになっていた。
1935年1月15日、ネズヴァルはブルトンの『ナジャ』(ネズヴァルの監修で翻訳され500部刊行)と『シュルレアリスムとは何か?』(ブリュッセルとプラハでの会議の翻訳)の刊行を告げ、刊行の時期はすでに発表しているので早急な返事を求めた。シュルレアリスムの革命的活動については《即興以外の何ものでもない》会議を開催することを望んでいたブルトンは旅行を遅らせた(1月18日書簡)。
マーネス画廊でのチェコ・シュルレアリスム展(シュティルスキー、トワイヤン、マコヴスキー Makovský)は好評でブルトンが来訪するという条件で期間延長されることになる。
3月21日、ネズヴァルはブルトンに旅行資金を送金したことを知らせ、列車の時刻表を同封し、マーネス画廊での会議が3月29日、レヴァー・フロンタによる会議が4月1日にプラハ市立図書館で開催されることを確認している。
3月27日より4月10日まで、ブルトンは妻のジャクリーヌ、ニューシュとポール・エリュアール、そしてパリ在住のチェコ人画家ヨーゼフ・シーマ(Josef Šíma)とともにチェコスロバキアに滞在し、熱烈な歓待を受けた。そしてブルトンもそのチェコのシュルレアリストたちとの交歓を心底楽しんだようである。プラハ郊外にある十六世紀に建てられた星形の城館を見学したのもこのときだった。パリに戻った後、4月14日、プラハ滞在は《私の人生における最も美しい思い出のひとつ un des plus beaux souvenirs de ma vie》だとブルトンはネズヴァルに書き送っている。
午睡書架
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