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坂口君が死んだといふのをね、朝の七時にS君から聞いたんだけど、何だか、ドタリと音がしたね

遠藤周作編『友を偲ぶ』(知恵の森文庫、光文社、2004年12月15日)

7月11日は水雀忌、湯川書房の湯川成一さんが亡くなった日である。もう十六年も経つんだなあ、と感慨にふけっているとき、こんな文庫に手が触れた。文学者32人を追悼する文章(弔辞も含む)を集めたもので、単行本は遠藤周作が編集して1991年に刊行された。そこに遠藤周作(1996歿)を追悼する安岡章太郎の文章を加えてある。執筆者は古今亭志ん生と和田勉以外はすべて作家か文筆家である。

檀一雄が「坂口安吾の死」を書いているが、そこにこんなくだりがあって、ちょっと唸った。

 安吾死去の報らせを聞いて、桐生に出かける道すがら、放送のことで、井伏さんと同車した。寒かった。井伏さんは興奮の面持で、少しくせっかちなふるへ声で、「坂口君が死んだといふのをね、朝の七時にS君から聞いたんだけど、何だか、ドタリと音がしたね」
 その井伏さんのドタリには感じがあった。
 さながら、安吾の巨躯が崩れ落ちるやうな響きがあった。
 いや、バケモノ並の巨大な奮闘が……。

p34

さすが井伏鱒二だなあと感心する。他には今東光の「川端康成との五十年」も川端の本質によく迫っている名追悼文だ。よく知られるように川端は美術品の蒐集に執着していた。文学者のコレクションとしては超一級であったようだ。古美術も買い漁った。《ハタから見ると、たいへん欲望の強い男に見える》(p59)と今東光は書いている。

 それが、古美術にもあったわけです。
 彼は、それが高価だから諦めるなんてことはしない男でしてねえ。それはもう法外な男でしたよ。
 ノーベル賞にきまったというニュースを聞くと同時に、川端は富岡鉄斎の七千万円の屏風を買いおった。
 それだけじゃない。埴輪の首一千万円で買うやら、他に何点か買って、結局は一億以上になりましてねえ、それでノーベル賞の賞金は二千万円足らずでしょう? どうなりまんねん、これは。まったく計算外の男だった。珍しい男でした。

p60

さらに当時文化庁長官だった今日出海(今東光の弟)にノーベル賞の賞金の小切手を担保にしてフランスで絵を買いたいから日本に送ってもらえないかと頼んできたのだそうだ。さすがにいくらするか分からない作品に担保もないだろうと説得したそうである。ただ、買うのはいいが、払いがキレイだったかというと、どうもそうではなかったらしい。以前少し引用したことがあるので、参照いただきたい。

川端康成の書斎
https://sumus2013.exblog.jp/32335493/

川端康成「凍雲篩雪図」を買う
https://sumus2013.exblog.jp/32427549/

もう一篇、面白く読めたのは、和田勉の「夏目雅子 わがTV女女伝」である。並の女優ではなかった。「ザ・商社」のロケでニューヨークにやってきたとき。

 最初のロケ地ニューヨークに彼女が着いた時、先き乗りしていたぼくは、空港まで出迎えに行った。
 ーーワッ、アハハハハ
 と、手を振りながら現われた彼女のカッコーを見て、ぼくは腰を抜かした(と、一応書いておく)。ともかく衣裳も髪型も、日本でちゃんと打ち合わせ済みだったのだが、これがぜんぜん「チガウ」のだ。
 まず衣裳。何か自動車工場勤務者のような、ブルーのツナギのジーンズで、そのヒモがうしろの背中のところで、中途ハンパな寸法で垂れさがっている。
 髪型。これがオスライオンのアタマのような、カーリーヘアなのだ。まさにオースッ! という具合いで。
 ナルホド、これが巷間云われていた「夏目雅子」ではなくて「ナツメマサカ!」という実体なのだ、と、ぼくはナットクを乗り超えて、深く打たれた。
 トランクの中は、ほとんどロケ中に読む「本」で埋まっている。中に漱石の「虞美人草」があってーーこの藤尾の役は、いつか必ずやってみたい、と云った。しかしむろん、役者にとって「いつか」ということは、決してナイのである。

p111-112

夏目雅子がそんな読書好きだったとは思わなかった。俳句も作っていたそうである。ロンドンからの帰りの機中で《東京で俳句の会にはいっていて、その例会の宿題の一句を作った》と見せてくれた。

 ーー水中花 ひとりでぶらりと 揺れてみろ

へえ、と思う。

なお、本書で追悼文を書いている人々も全員すでに亡くなっている。

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