大海に帰す、これが私の散書の総てである
青山毅は読んだことがなかった。本書略歴と検索でヒットした情報を引いておく。
収録エッセイ「総ては蒐書に始まる」(初出『国文学 解釈と鑑賞』1980/10/1)と「総ては散書に終わる」(書き下ろし)から少しばかり紹介してみる。
1950年代後半に高校生活を送った。医師を目指して理科系の進路を選択していたのだが、突然、肺結核に襲われ休学そして留年を余儀なくされた。その療養期間中に退屈にまかせて家にあった『現代日本文学全集』(円本)を読み始め文庫本で現代文学に親しむようになった。
復学しても勉学には身が入らず一日の大半を読書ですごすようになっていた。高校三年の担任に図書館司書の道をすすめられ、その専門課程のある大学へ入った。
武田教授からは大学院進学をすすめられるも辞退。社会へ出て、別所直樹『太宰治研究文献ノート』(図書新聞社)がきっかけとなって太宰治の書誌学的蒐集を始める。次に高見順の本を集めるようになり『高見順書目』(1970)を三百部限定で刊行した。
これを俗に「持ったもの勝ち」と言う(とは小生が折々に言う冗談の本音である。持ったもの、とは「本」であり「実弾」であり、それらの根源となる「欲」である)。
青木は十五歳から本を読み始めて三十年間で《仮に一年三百冊平均としても、わずか九千冊である。おおくとも、まともに読んだ本は、一万という数字には達しないであろう。》(p393)と書いているが、一年に300冊を《まともに》読むのは、まともじゃない。1964年から1983年の19年7ヶ月間、青山は日本近代文学館に勤務したそうだ。そこで書庫に保存されている多くの◯◯文庫が死蔵されていることを寂しく思った。
と書いたその一部というのが《高見順、平野謙、小熊秀雄、島尾敏雄、吉行淳之介の前著作であり、総て私が全集等で書誌を編んだもの》であり、しかもそれらを《カバー、オビ、ハコ、月報、チラシなどの付物を一緒に、原型をくずすことなく保存することを条件とすれば》、日本近代文学館が唯一の機関であるというのが実情(むろん執筆時点1985年でのこと)と書くほどのなはだしい未練ぶりである。
もちろんその気持ちは痛いほどわかる。とはいえ著者自身も書くように《所詮は散書の運命にあるのである。/大海に帰す、これが私の散書の総てである》(p398)、本は流れ出てこそ本であり続ける。